第3回 大恐慌の時代
大戦後のつかの間の繁栄
ヨーロッパは戦争によって荒廃したものの、アメリカの被害は殆ど無く、日本もそうでしたが、アメリカも戦争によって物資の重要な供給地となって多大なる利益を上げました。日本と対照的だったのは、日本はこの特需が一過性のものに終わり、反動で不景気になりましたが、アメリカは引き続き繁栄を続けたことです。そしてアメリカは、国際連盟には加盟しなかったものの、外交面でも世界をリードし、21〜22年には「ワシントン軍縮会議」を開き、軍縮を主導。軍艦を各国が建造競争をしないように、保有比率をアメリカ:イギリス:日本:フランス:イタリア=5:5:3:1.67:1.67と定めました。これらを定めた体制をワシントン体制、と言います。
一方で国内では色々問題も。
折角ワシントン体制を主導した共和党ハーディング大統領は、なんと任期途中の1923年に突然死去。すると、彼が任命した政府高官が次々と汚職していたことが発覚しました(アメリカは日本と違って、政府の高官の多くを大統領が連れてきて任命します)。お陰で、折角アメリカの歴史に輝かしい1ページを刻んだはずの大統領は、見事悪評で名を残してしまいました。
また、酒は飲んでも飲まれるな。じゃない、飲むな!
と、言うことで禁酒法が制定されます。19世紀より酒を飲まないようにしようという運動があったのですが、ここに来てついにピークになったんですね。ウィルソン大統領時代の1919年1月に、なんと憲法の修正と、全国禁酒法の制定で、酒の製造・販売を禁止しました。医療用や工業用などのアルコール類と自家製果実酒をのぞき、アルコール含有率0.5%以上の酒類が禁止の対象とされます。
ところが禁止したところで、愛飲家が酒の味を忘れられるわけがありません。
当然、密造組織が出現します。特に、マフィアやギャングが暗躍し、アングラなワールドが一層形成されます(有名なの人物にイタリア系ギャングのアルフォンソ・カポネがいます)。さらに、わざわざ禁酒のために予算は使いたくないと、各州も取締を渋ったりしますから、もういい加減な状況に。一方で、警察、FBIは必死にマフィアを取り締まるために熾烈な抗争をします。
結局、禁酒法への反対が起こり、大統領選挙の争点にまで発展。さらに、この後述べますが、大恐慌が発生して、禁酒法のお陰で仕事がないんだという意見も出る始末。1929年、大統領諮問委員会は禁酒法は失敗したとして、33年に先ほどの憲法の規定を廃止さました。
ウォール街の恐怖!
一種のバブルだったんでしょうね。考えてみれば、日本はここから何も学ばなかったわけです。1929年3月、フーバーが大統領に就任すると株価が急騰します。人々は、乗り遅れてはいかん、と必死に株を買います。家も抵当に入れ(抵当というのは借金する時、借金を払えなかったら譲り渡す、でも質と違って譲り渡すまでは使えると言うこと)、どんどん株を買っていきます。
が。
ぱーんとはじけます。10月24日(暗黒の木曜日)、今度はみんな一斉に株を売り始めちゃったもんですから、株価は大暴落。みんな一気にお金を失いました。考えてみれば変な話です。現金自体は、出回っている量は同じはずなんですけどね。そこが、株の怖いところ。その後4年間で、4500社以上の銀行が倒産し、工業生産は50%減、1933年には失業者が1300万人に。
さらに、アメリカだけではありません。特にドイツを始めとする敗戦国は、アメリカの援助、企業の進出などで復興していましたから、モロに打撃・影響を喰らいます。何故ならば、アメリカの企業はドイツに構っている余裕はないので資産を整理し、ドイツから撤退を始めたからです。
ニューディール政策とルーズヴェルト
そこで1932年、殆ど伝説的なニューディール政策を掲げたフランクリン・ルーズヴェルトが第32代大統領として当選します。ちなみに第26代のセオドア・ルーズヴェルトの親戚(妻エレノアがセオドアの姪)です。また、彼はラジオという新しいメディアを巧みに利用し、国民に直接訴えかけます(官邸の暖炉の前に付けたラジオから流したため、炉辺談話と言われます)。その一方で、彼は自分が重度の身体障害者(足が小児麻痺で不自由)であることをずっと隠し通しました。そりゃ、こういった役職はイメージ物ですから、選挙に勝てなくなる可能性がありますからね。そして今では絶対に無理ですが、当時はテレビがありませんから、国民の目に触れる機会も少なく、また紳士的だったのか、風刺画でさえ彼の身体障害を叩くことはなかったのです。ですから、多くの国民は、フランクリン=ルーズヴェルトが身体障害があったことを後になってから知ることになります。
さて、彼が打ち出したニューディール政策は、それまでは否定されてきた政府による経済介入を実施します。
まず金融不安から取り除きます。つまり、銀行を厳しく政府の規制下に於き、銀行は政府が保証。安全であるとして、人々の不安を取り除きます。次に、連邦緊急救済法(FERA)で設置された連邦緊急救済局が、失業救済向けとして州政府に5億ドルの連邦資金を提供し、2000万人以上に援助させます。
さらに公共事業を大規模に実施。民間資源保存局(CCC)は、植林などの事業で多くの若者に職をあたえ、またテネシー川流域開発公社(TVA)を設立し、雇用の場を作ります。こんな会社が何の役に立つのかというと、テネシー渓谷を開発して水運と治水に役だて、アメリカ南西部の広大な地域に電力を供給する目的する事業で、しかも多くの人出が必要になるのです。人が集まれば、そこに門前町が出来るとばかりに、色々とお店も出来ていきます。
この他にも色々法律を作っていきますが、残念ながら「政府が経済に介入するとは! これは自由主義ではない!」と、憲法違反として裁判所に違憲判決を受けています。そして1935年からは社会福祉の方に力を入れ始め、富裕階級への増税、個人事業へのきびしい規制、僻地の電化に対する補助金支給(僻地電化局)、組織労働者の権利を保護等を打ち出します。
1936年には圧倒的な支持で再選。また、最高裁判所は批判的な判事ばかりだったので、辞任などで欠員が生じるとルーズヴェルト派を入れます。そして経済はある程度回復し、人々の関心は外交や軍事問題へと移っていきます。そうです、ヨーロッパ、それからアジアでは戦争への不穏な空気が漂っていたのです。
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