中国史(第5回 三国志)

○蜀漢の劉備と家臣団

 一方の劉備先主 161〜位221〜223年)。この人物は、景帝の子孫を称しています。ゆえに漢の皇室に連なるということが最大のウリでしたが、実際の所はよくわかりません。彼は、むしろを売っていた貧乏人でした。しかし、景帝は子沢山でさらにその何代もあとの子孫ですから、落ちぶれた家もでていてもおかしくはありません。

 しかし劉備は、漢を建国した劉邦とうり二つのような人物で非常に魅力的であったようです。それが、ほとんど無一文であったのにも関わらず関羽(かんう ?〜219年)張飛(ちょうひ ?〜221年)趙雲(ちょううん ?〜229年)といった勇猛な部下を得ることが出来ました。

 「漢の王室を助ける!」
 劉備達のそのメッセージと、そしてそれを達成できず、志半ばで終わってしまったことは、後世の人々の涙を誘い、必要以上によく書かれました。しかし、それを差し引いても劉備達は人情味あふれる集団だったようです。そして彼らは、なかなか定住することが出来ず、各地を転々としていましたが、諸葛亮(孔明)(181〜234年)に出会います。彼の家を劉備は何度も訪問し、三顧の礼を尽くして家臣に迎える・・・一説には逆に諸葛亮から「雇ってくれ」と売り込まれた、と言う話もありますが、ともあれ運命的な出会い。

 このあと、さらに当時、諸葛亮と並んで、その筋の人には天才だと、その名が高かった(ほうとう 178〜213年)を家臣に迎えることに成功。一説には、劉備は彼を諸葛亮よりも信頼し、さらに軍事担当は彼、内政は諸葛亮にしようと考えていたようです。そして、根無し草だった彼らも、まず荊州を確保すると、中国西部の蜀の地に攻め込み、ここを治めていた劉璋りゅうしょう ?〜219年)を降伏させ、これを占領します。

 ところが激戦の中で、統が戦死してしまいます。
 このため、諸葛亮が軍政も担当する羽目になり、彼には激務がのしかかることになります。

○蜀漢を建国したものの、友情を優先

 さて、後漢が滅亡すると、劉備は成都を都に定め、(221〜263年)を建国しました。なお、実際には国号は「」を名乗っています。蜀とはあくまで歴史家が便宜上分ける名前です。また、蜀漢とも呼ばれます。こうして皇帝になった劉備ですが、どんなことよりも先にやることがありました。

 それは、呉の地域を支配する孫権によって、兄弟のように信頼し合っていた部下の関羽が殺され、しかも荊州を失っていたため、彼の弔い合戦をすることでした。普通、部下が殺されたぐらいで一々弔い合戦なんてやりませんが、この2人+張飛の友情は半端ではなく、もう怒り心頭だったんですね。周囲は当然反対しますが、それを押し切って合戦の準備じゃ!!

 しかし、出陣準備中に、やはり兄弟同然に信頼していた張飛が部下に殺される事態が発生。
 その知らせを伝える使者が来たとき、劉備は、
「ああ、張飛が死んでしまったか」
 と内容を聞く前に言ったといいます。こうして信頼する部下を2人も失った劉備の怒りは激しく、孫権軍に対して猛攻撃をかけ、孫権をビックリさせます。しかし、周りが見えていなかったこともあり、孫権軍の陸遜(りくそん 183〜245年)率いる軍勢に大敗北。劉備は逃げ帰ると、すっかり落ち込んでしまい、失意のうちに亡くなります。

 その直前、彼は暗愚な息子劉禅後主 207〜位223〜271年)を諸葛亮に託すのが申し訳ないと、
「息子がどうしようもなく馬鹿だったら、君が代わりに皇帝になってもよい」
 と言います。
 この頃、これほどまでに諸葛亮は劉備に信頼されていました。この言葉を、劉備は諸葛亮の性格を知っているから、そんな言葉が言えたのだという意見もありますが、しかしなかなか言える言葉でもないでしょう。ただし暗愚とはいえ、劉禅にしてみれば居心地がよくありません。オヤジは自分より部下を後継者にしたがっているのか、ということ。

 それもあり、諸葛亮は劉禅に有名な「出師の表」という名文を書き、蜀のおかれた環境と、自らに二心がないことを示します。そして、亡き劉備の夢を叶えるべく連年のように魏に侵攻します。

 しかし、人材の不足などから勝つことは出来ず、最後には魏の名軍師司馬懿が登場。諸葛亮は司馬懿の持久戦作戦に負け、陣中で病死するのでした。謹厳実直な上、内政も軍政も両方とも担当して疲れ果てたものと思われます。間違いなく過労死ですね。また、彼はほとんど財産を残しませんでした。ここも、後世の人から尊敬される理由といえます。

 ところで名軍師と呼ばれる彼ですが、果たして名軍師と呼べるほど、才能があったのかどうか、疑われています。しかし、それでも人材豊富な魏と互角に渡り合ったのですから、やはりそれなりの能力はあったのではないでしょうか。 むしろ、仕事を他人に分配させられなかったところに、蜀の人材不足、諸葛亮の使命感と、一方で欠点があるのでは、と私は思います。

 そして蜀は、諸葛亮の死後、その腹心達によってしばらくは持ちますが、彼らが死ぬと魏にあっさりと滅ぼされてしまいます。
 劉禅が宦官と遊んでばかりいたのが原因でした。

○孫権の呉と魏の滅亡

 もう一つ、孫権(182〜252年 大皇帝 位229〜252年)。兵法で有名な孫武(孫子)の子孫を称する彼は、長江下流域を本拠に勢力を固めました。彼のモットーは、これは!と思った部下を見つけたら、とことん信頼し、仕事をさせることにありました。

 そんな中、曹操が呉に攻撃を仕掛けようとしていました。
 曹操の強さは皆の知るところ。降伏しよう、という意見が大勢を占めていました。しかし、当時、荊州にいた劉備からの働きかけと、孫権の兄・孫策の無二の親友だった名将軍・周瑜(しゅうゆ 170〜210年)が「我々は向こうでも出世できるが、貴方はそうは行くまい。徹底抗戦すべし!」と述べます。孫権は「よっしゃ!そしたらお前に全部任せるぞ!」というわけで、有名な赤壁の戦いで、周喩率いる呉の軍勢が魏の軍勢を大いに撃ち破り、覇権を確立します。

 さらに、彼は部下の教育も行います。呂蒙(りょもう 178〜219年)という人物は勇猛でしたが、いささか猪突猛進型の人間でした。しかし、孫権は「奴は鍛えれば頭脳派としても使える人間になる」と考え、直々に「これと、これと、これを読め!」と色々な兵法書を提示。呂蒙も「私のためにそこまで言ってくれるとは!」と感激し、猛勉強。以後、豊富な知略と有能さを兼ね備えた名将となり、関羽を倒し、荊州を確保することに成功します。ただ、これからと言うときに、周喩も呂蒙も亡くなってしまうのですが・・・。

 それから孫権は、北ヴェトナムぐらいまで占領し、地図を見て頂ければ解りますが、領土はかなり広範囲に及びます。

 そして、229年に正式に建国し「」を国号とします。
 また蜀漢の諸葛亮らが連年のように魏を攻めたのに対し、孫権は慎重策をとります。
 これにより、呉はさらに発展し、その後の江南発展の基礎作りに大きく貢献しました。

 ところで、劉備と諸葛亮の信頼関係は美談として有名ですが、実は、諸葛亮の兄・諸葛謹と孫権の信頼関係も、なかなかのものでした。前述した通り、劉備は関羽を殺された恨みから孫権軍に攻め込んできます。そこで、諸葛謹は劉備に対し「気持ちは解るが、魏を討つ方が先なのではないか」と手紙を送ります。もちろん、劉備にとっては魏よりも関羽の仇の方が優先でしたから問答無用。

 ところが、この諸葛謹の行動に「奴は劉備に内通しております」と孫権に訴える者がいました。しかし孫権は「私も諸葛謹も互いに背かないと誓い合ったのだ」と言い、まったく取り上げませんでした。弟があまりにも有名すぎたため、諸葛謹も色々と疑いをかけられ苦労したようですが、主君からは絶対的な信頼。そりゃもう、頑張っちゃうしかないですなあ。しかし、孫権は晩年に耄碌(もうろく)し、後継者選びの時に、孫権の方針に反対した多くの名家臣を死に追いやってしまい、陸遜も巻き込まれて死んでしまいました。

 ところで魏は、文帝の子、曹叡明帝 205〜位226〜239年)の死後、司馬懿によって骨抜きにされ、そして彼の次男の司馬昭が魏の全権を掌握。曹操の時の同じように、司馬昭は皇帝の座には就かず、息子の司馬炎(236〜290年)が皇帝に就きました(武帝 位265〜290年)の建国です。

 ・・・人名が多く出てきてご免なさい。しかし、項羽と劉邦、三国志は武将達のドラマとして有名ですが、これ以後の歴史では皇帝達ばかりが登場します。業績を皇帝一人に結びつける書き方がされたからでしょうか。

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