中国史(第7回 南北朝文化)
〇華やかな南朝文化の裏で・・?
この時代の中国文化は、江南地域で発達しました。六朝文化とも呼ばれる、貴族文化です(華北では、異民族による質実剛健な文化)。文学では、陶淵明、謝霊運が活躍。対句を用いた華麗なものが流行します。絵画では、顧ト之、書では現在でも大変有名な、王羲之(307頃〜365年頃)が活躍します。特に、王羲之の書には、当時からコレクターも現れ、その後の金持ちの芸術品収集の先駆けとなりました。
また、思想では儒教に代わり、再び老荘思想が大流行。これを基に世族を超越して、論議をする清談もうまれます。戦乱が影響しているのでしょう。秦から漢の時に老荘思想が流行したときもそうでした。
また、実用書でも地理の本である『水経注』、農業技術の本『齊民要術』、医学の本『傷寒論』が書かれ、人々の生活に貢献します。このように、南朝の六朝文化は非常に優れたものでした。
ところが、そんな文化の裏では魏代末より南朝にかけて麻薬「五石散」が文化人・貴族の間で大ヒットします。これは疲労回復と気分高揚の効果があり一方で毒性があります。そのため、「行散(あんさん)」とよばれる散歩が必要で、町中で多数の知識人が徘徊する姿が見られたそうです。ちなみにこの五石散を飲めば仙人になるとも信じられていて、皇帝でも飲んだとか。名君でも飲む人がいて、皆早死にしています。
*k朝と宗教
それから、仏教が本格的に中国に入ってきます。仏図澄や鳩摩羅什が西域から北朝の王朝から招かれ、仏典の中国語訳をします。また、法顕はインドで仏教を学びました。彼の著作、仏国記はその時の旅行記です。この仏教の隆盛に伴い、敦煌・雲崗・龍門などでは、石窟・石仏・仏画が盛んに作られ、描かれました。これらはインドのガンダーラ・グプタ様式や、中央アジアの様式が影響されています。北斉(550〜557年)時代の仏像 (大英博物館にて)
また、寇謙之によって、古くからの民間信仰と仙人や不老不死の神仙思想が結びついた、道教が成立します。現世利益を願うこの教え、その後長い間、儒教と共に中国の一般の人々に根付きました。
当初、この仏教と道教は仲が悪い。北魏第3代皇帝太武帝の時に、漢人宰相の崔浩(381〜450年)は道教を手厚く保護する一方、仏教を弾圧しました。しかし、太武帝は死ぬと仏教は盛り返します。
ちなみにこの崔浩、北魏の華北統一の立て役者で、北魏で歴史書を書きますが、これが鮮卑族を侮辱する歴史書でした。崔浩は処刑され、例の孝文帝即位まで、漢人はあまり登用されなくなります。まあ、余談。
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