中国史(第8回 隋の中華再統一と大運河)

〇2代で終わった隋ですが

 では、再び中国を統一した、隋の政策を見ていきましょう。まず、隋が都に選んだのは長安。この時代は大興城という、なんとも縁起のよい名前で呼ばれます。そして、北魏と同じように均田制を採用。

 また、軍のシステムは北朝から続く府兵制を採用。壮丁(21〜59歳の男子)の中から徴兵され、農閑期に訓練を受けて、軍が出動する時に、兵士としてついていかなければ行けないという制度です。

 ところで隋の課題は、それまで国が短命で終わる原因であった豪族勢力を排除し、皇帝と国の権力を強化することでした。そのため、まずは律令を定め(律は刑法、令は行政法)、豪族を官僚にします。そして、県を州に直属させる州県制を実施し、州長官からは、軍事権と地方官任命権を奪い、中央集権化を進めます。さらに、魏からの官僚任用制度である九品中正法をやめて、有名な科挙(当時は官僚任用法と呼ばれる)を採用します。これは、基本的に清まで続き、約1300年以上も採用されました。

 なぜ九品中正法をやめたのでしょうか。それは、この制度が、地方の有力豪族が官僚を推薦するという制度だったことにあります。この制度だと、豪族の都合のいい人だけが中央に行き、そこで門閥を作ってしまい、皇帝の権力が減ってしまうのです。

 ところが、そんな隋も2代目の楊広煬帝 位614〜618)であっさりと滅んでしまいます。煬という字には礼を避け、人々を遠ざけ、民を虐げるという意味があり、他のいかなる皇帝と比べても、抜きん出た悪評があったことが伺われます。一体、煬帝(楊広)は何をやったのでしょうか。

 煬帝は、実力で皇帝の座を勝ち取った人物でした。皇太子は本来、兄だったのですがこれを謀略で葬り、母親に優等生ぶりをアピールして、皇太子の座をえます。そして、父親・楊堅が急死すると皇帝の座につくのですが、実は楊堅を暗殺したのだとの説もあります。しかし、このぐらいは煬帝のみの悪行とはいえません。

 煬帝が特に恨まれたのが、大運河の建設です。これは、以前にも述べましたが、交通の便の悪い大興城(長安)や現在の北京と、江南・長江南方を結びつけようという大工事です。地図で確認してください。恐ろしい距離の工事です。その距離1500キロ!この工事には、男性だけでなく女性までも動員されました。

 さらに、3回にわたって朝鮮半島北部を支配していた高句麗(前1世紀後半〜688年)に侵攻しましたが、失敗。この過重の負担に民衆が決起し、豪族も挙兵し、混乱の中で煬帝は親衛隊長に殺害されました。

 後に残ったものは、完成した大運河です。たしかに、工事は多大な犠牲と労力を伴いましたが、しかしこの大運河により中国は更なる発展を遂げるのです。なんとも皮肉な話ですよね。ですが、この労力ゆえに楊広が煬帝と呼ばれるようになったのです。

 ただし、この名前は、次の王朝である唐がつけたものです。唐は、自らの正当性を主張しなければなりません。そこのところは、考慮すべきでしょう。しかしそれにしても、ここまでの名称になるとは、よほど人々から恨まれていたのだと思われます。

〇隋と日本

 ところで、607年、煬帝の時に日本からの使者がきました。聖徳太子(574〜622年)が派遣させたもので(これを遣隋使といいます)、小野妹子が代表です。その書状の冒頭には、こんなことが書かれていて、煬帝を激怒させました。
「日出ところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや・・(以下略)」
 どこに激怒したかは、2説あります。1つは、中国を日没する国と言われたこと、もう1つは日本が自分の国の天皇(推古天皇)を「天子」と呼んだことです。煬帝にとって、天子は、1人でなくてはなりません。

 しかし、激怒したとはいえ、高句麗遠征の直前のことでしたので、なるべく日本を敵に回したくない煬帝は斐世清を使者として、また、煬帝が「何も知らない田舎ものに隋の国力を見せてやろう」ぐらい思ったかも知れません。

 と、いいますのも小野妹子は「(隋の皇帝からの)国書は、途中で百済(朝鮮の国家の一つ)の人に盗まれた」と言って提出していません。おそらく、日本はさんざんにけなされていたのだと思います。が、斐世清を帰国させる時に、小野妹子と共に隋に行った留学生・留学僧が送られ、帰国後彼らは、大化改新と呼ばれる政治改革で大きな役目を担いました。

 ただし、隋はすぐ滅亡してしまいましたので、遣隋使は2回だけの派遣となりました。それから、日本では遣隋使、続く遣唐使ばかりが注目されていますが、それより多く朝鮮の新羅に遣新羅使を派遣していることも、覚えておいた方が良いと思います。

 ところで、このころ北方の遊牧民族はと言うと、5世紀に北朝を脅かしていた柔然(モンゴル系)が、トルコ系の突厥に滅ぼされます。この突厥は中国東北地方から中央アジアまでを支配します。そして、モンゴル地方の東突厥と中央アジアの西突厥に分裂をします。隋は、それでも強大な東突厥と相互不可侵を約束するのでした。

次のページ(第9回 唐の時代)へ
前のページ(第7回 南北朝時代の文化)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif