中国史(第12回 華北の金と江南の南宋)

○金の建国と宋の南遷


  宋が党争に明け暮れているうちに、中国東北地方の沿海部で半農半猟の生活を送っていたツングース系の女真族が、族長の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)の元で強勢になり、(1115〜1234年)という国が建国されます(完顔阿骨打は太祖 位1115〜23年に即位)。そして、金は遼を滅ぼすことにし、宋と共同出兵を盟約します。

 1125年、金の攻撃で遼は滅亡します。ところが、宋はその頃起こった方臘の乱の鎮圧に手間取り、共同出兵の盟を果たせませんでした。

  方臘の乱とは、当時宋の皇帝であった趙佶徽宗 位1100〜25年)が、自らの庭造りのため、江南の地より珍しい石や木を綱につけて、人々に運ばせた「花石綱の労役」に対して起こった、方臘率いる反乱です。徽宗は、書や絵画に抜群の才能を示し、この時代の上流階級の描く絵、すなわち文人画の代表ともいえる人物ですが、政治に関してはまるっきりの無能で、それどころか国民に大変な負担をかけていました。

  このような状態ですから、金が宋を滅ぼすのはたやすいことでした。金は宋に対して盟約違反を理由に侵攻を開始します。徽宗はあわてて「己を罪する詔」をだして、息子の欽宗に譲位しますが、1127年、都の開封が攻略され、徽宗・欽宗を始め、皇族・高官ら数千人が捕らえられ北方へ連れ去られました(靖康の変)。

 この時、たまたま開封にいないで難を逃れた皇族がいました。欽宗の弟、趙構です。彼は同年、江南の地に移り、臨安(現在の杭州)を首都に定めて帝位に就き(高宗 位1127〜1162年)、宋を復興させます。歴史家はこれを南宋、そしてそれまでを北宋と区別します。また、金は華北一帯を占領し、都を燕京(現在の北京の近く)に定めました。そして、南宋を狙い始めます。

 南宋では、これに対し徹底抗戦を唱える岳飛(1103〜1143年)らの武断派と、秦檜(1090〜1155年)らの文治派で議論が沸騰していました。宰相となった秦檜は、1142年、軍閥の対立を利用し、中央軍に編入することに成功し、金と和平を結びます(紹興の和議)。

 この和平条件は、南宋が金に対して臣下の礼を取るという、今までと正反対の関係になり、しかも毎年宋が金に対し、金と絹を贈ることになりました。この和平条約を結ばせた秦檜は、民族の裏切り者として、現在まで評判が非常に悪く、岳飛は、なんと秦檜によって謀殺されたため、救国悲劇の英雄として尊敬されています。

 ですが、実際のところ南宋が金に勝つ余裕など無く、秦檜がこの和平条件を結んだため、南宋は150年間続きます。また、江南地域を積極的に開発することになり、中国南部の発展に大きく貢献しました。 ただ、秦檜は元々金の捕虜でした。そのため、何か言い含められたのではないかと評判が悪いのです。  ところで宋では代々、建国をした趙匡胤ではなく、その弟趙匡義の家系が位に就いていました。しかし、趙匡胤にも子供はいます。なぜ、こんなことになったのかは不明ですが、南宋の高宗死後、子供がいなかったため、趙匡胤の家系に帝位が移ります。ゆえに、家系で見ればようやく南宋になって趙匡胤の子孫の国になったわけです。

金の制度・政策

 一方、金は猛安・謀克という軍制を敷き、また遼と同じように、漢人には州県制、女真族には部族制を採り、二重統治をします(その後中国的制度に統合)。また、中国文化を盛んに取り入れ、仏教も大いに発展します。ですが、中国的に完全に染まらないよう、固有の民族文字である女真文字を創製します。しかし、結局は中国化していきました。

 そして、13世紀より財政難に陥り、交鈔(紙幣)を乱発し、経済はインフレになって混乱し、衰退してゆきます。そんな中で1234年、金はモンゴルから突如興った帝国により滅亡するのです。金はモンゴル高原を各部族の対立をあおり、弱い勢力に肩入れをすることで勢力均衡を図る政策をとっていたのですが、戦争続きにさせてしまったため、かえって軍事的・政治的な才能にめぐまれた英雄を出してしまうことになりました。その英雄こそが、チンギス=ハンなのです。

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