第23回 名君の時代1〜康煕帝〜
○ロシアとの関係
ちょっと鄭成功の話が長くなりましたね。では、引き続き康煕帝の時代を見ていきます。鄭成功や三藩の反乱を鎮圧した康煕帝の目は、清の外に向かいます。当時、北西ではピョートル大帝率いるロシア帝国がシベリアを目指し、進出してきました。ロシアは、極東の海が欲しかったのです。当然、清との間で戦闘が起こります。なにしろ、シベリアのすぐ下は満州族の故郷です。引き下がるわけにはいきません。
康煕帝は清の力を見せると、清側代表のソンゴトとロシア側代表のゴロービンの間でネルチンスク条約を結ばせ、国境を確定。アムール川上流のアルグン川、シルカ川にそそぐゴルビツァ川と外興安嶺をむすぶ線を国境としました。この他に、不法越境者の処罰、旅券を所持した通商交易をみとめるなどの内容もあります。比較的清にとって有利なものだったとか。
そう言えば、ここで初めて「条約」という言葉が出てきましたね。もっとも、この概念は当時の清にはない物で、あくまで清がロシアが清に対して朝貢してきたと考えたようです。こういった発想は、後に清にとって命取りになるのですが、それはまた今度。
○モンゴル・チベットとの関係
康煕帝の時代の特徴は、外交問題が多発したことです。さらに、60年にわたる在位のため、必然的に書く量が多くなります。今度はモンゴル高原とチベットの話。モンゴルではタタール(北元?)とオイラートといった部族、及びそれに派生する部族が、それぞれ大きくなったり小さくなったりしながら覇権を争っていたことは、明の時代にご説明しましたが、康煕帝の時代に勢力を拡大したのが、オイラート部の一派、ジュンガル部です。康煕帝以後も清と戦うことになりますので、その都度御紹介しますが、ここではガルダン・ハンという人物に率いられた時のお話。
ガルダン・ハンは、ジュンガル部首長の一族で、元々チベット仏教の僧侶でしたが、ジュンガル部の内紛を鎮めるために還俗し、そしてこれを統一。西はキルギス諸部やカザフ、南は東チャガタイ・ハン国の流れをくむカシュガル・ハーン国(ヤルカンド・ハーン国)を滅ぼし、勢力を大きくします。
ところが清と戦う羽目になったのは、1688年にモンゴル高原中央に進出し、ハルハ諸部と呼ばれるモンゴルの一部族を倒した時のこと。敗れたハルハ諸部は清に助けを求めます。康煕帝も、ロシア問題が片づいたところだったので、自ら出陣。
さらに、甥のツェワン・アラプタンがガルダンに反旗をひるがえし、まさに挟み撃ち状態に。1696年のジョーンモドの戦いで康熙帝ひきいる清軍に大敗したガルダン・ハンは、翌年、アルタイ山中で窮死しました。もっとも、ジュンガル部はツェワン・アラプタンと息子のガルダン・ツェリン(在位1727〜45年)の時に最盛期を迎えますので、ジュンガル部の勢いはまだ続きます。
で、タイトルにもあるチベット。ちょっと・・ではいけないのですが、これ以上長くしたくないので、やはり「ちょっと」解説しておきます。
チベットは、元に支配された後、チベット仏教(ラマ教)が支配します。ガルダン・ハンがチベット仏教の僧だったように、さらに元のフビライ・ハンとの関係も厚かったように、モンゴルとの関係は極めて親密で、影響力も大きかったチベット仏教は、旧来の紅帽派に対して黄帽派をおこしたツォンカパの弟子、初代ダライ・ラマであるゲンドゥン・ドゥプパ(位1391〜1471年)の勢力が拡大し、副法王のパンチェン・ラマをおいた制度へ。
そして、ダライ・ラマ5世(1617〜1682年)の時に、チベット仏教はチベットを支配下に置きます。世界遺産であるポタラ宮は、この時造営されました。一方、このダライ・ラマ5世はガルダン・ハンに肩入れしたように、清と対立したため、以後も清、さらには中華人民共和国との抗争へつながり、1959年、中華人民共和国のチベット解放(侵攻)に伴い、現在チベット仏教はインドで活動を続けています。この辺、複雑で解りづらいので、今回はこの程度にして、またそのうち更新します。あ、ちなみに「ダライ」とはモンゴル語で「偉大な」「海」、ラマはラマ教のラマですが、サンスクリット語の「グル(師)」のチベット語だそうです。
なお、1720年。康煕帝が死ぬ2年前にチベットは清の保護下に置かれます。また、ウイグルなど西方にも領土を拡大。それから、第2代のホンタイジの時にモンゴルのチャハル部を平定したことは前述しましたが、この時に「元」のハンの玉璽も手に入れています。このことから、清は中華帝国、モンゴル(元)帝国、チベットすべての後継者であると称し、さらに中華人民共和国は、その清の後継者だから、その領土を引き継ぐのは当然である・・・そう考えているのです。
○康煕帝の内政
やっと内政を見ていきます。色々カットしてもこれだけ書くことがあるのです。まず、康煕帝は水路の整備などの海運の強化、黄河の治水などを行わせ、経済を発展させます。さらに、従来の人頭税に代わって、丁銀の負担をすべて地銀のなかにくり入れ、銀で納入させる地丁銀という税制に次第に切り替えを始めます。長く実施された人頭税というのは、人の数に応じて課税しますが、その数をごまかしたり、役人が不正をして、税金をネコババするため、問題があったのです。
康煕帝は、文化事業に力をいれ、「康熙字典(漢字辞典)」「古今図書集成」などの大規模な編纂事業を実行させます。さらに清を訪問していたキリスト教カトリックの一派・イエズス会の宣教師、ブーベ、フェルビーストら宣教師らに「皇輿全覧図」などを制作させました。皇輿全覧図は現存しませんが、記録によると北京を中心に国内約650カ所の経緯度を測量させたそうで、当然、これほど大規模な測量は、当時、世界に例がありません。
そのキリスト教ですが、この時期に典礼問題という事件が起こります。
これは、中国のキリスト教布教を巡ってイエズス会とフランチェスコ修道会&ドミニコ修道会の間で論争が起こった問題で、後者はイエズス会が中国の思想である儒教思想、祖先崇拝といったことを認めているのに反対したのです。ローマ教会の方針は二転三転しますが、ともあれ康煕帝としては儒教思想の否定などとんでもない。イエズス会以外による布教を禁止しました。
康煕帝はまた、南書房とよばれる学問所をつくったり、画家、版画家、彫刻家などを宮中にあつめ、一種のアカデミーをつくって文化芸術の興隆をうながし、清朝文化の土台をきずいたのですが、これらの事業は科挙に落ちたものの、かなりの博学である人たちへの働き場所として大きく重宝されたのです。
そんな康煕帝ですが、後継者がなかなかすんなり決まりません。第2子を皇太子にたてながら非行が多いため、2度も廃立することになります。結局、臨終の床でようやく第4子を次の皇帝に指名しますが、これがきっかけで後継者の名前はギリギリ最後まで明かさず、専用の箱の中に、後継者の名を書いた紙を入れておく、「太子密鍵の法」が成立することになります。これって、最後の最後まで誰が後継者が解らないので、派閥も出来ませんし、後継者の候補者達は、良いところを皇帝に見せようと頑張ります。お陰で、比較的清は名君に恵まれることが多かったとか。あくまで、比較的、ですが。
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