第31回 日清戦争
○今回の年表
1885年 | 日本と朝鮮問題に関する取り決めをした天津条約を結ぶ。 |
1888年 | 北洋艦隊を設立 |
1894年 | 朝鮮で甲午農民戦争が起こる |
1894〜95年 | 日清戦争 |
○朝鮮をどちらが支配するか
さて、日本は遅ればせながら植民地獲得レースに参加するべく虎視眈々と朝鮮半島に狙いを付けていました。一方で清も、宗主国として朝鮮をそう簡単に他の国に渡そうとは思いません。また、日本国内の空気として「朝鮮を自由にしない清は許せない」という風潮、それから「日本、朝鮮、清の三国で諸外国に対抗する」という風潮がこの時期にはありました。
また朝鮮でも「日本の力で朝鮮を完全に独立国家にしよう」と考えた政治家の金玉均(キムオッキュン)がクーデターに失敗し、日本に亡命します(*クーデターを鎮圧したのは清軍で、率いていたのはのちに有名になる袁世凱)。これに関連して日本も出兵していたため、1885年に日本側伊藤博文、清側李鴻章との間で、両国軍の撤退と将来朝鮮に派兵する場合は相互に通知しようと取り決めた天津条約を結びます。
しかし結局のところ、清はあくまで朝鮮は清の服属国である、一方で都合の悪い時には他国とするという曖昧な態度を崩しません。
そのため、次第に日朝清の提携は夢のまた夢である、ならば日本は独自路線と世論の風向きも変わってきました。また亡命から10年後、金玉均が上海に誘い出され暗殺されたため、日本では金玉均追悼集会を開いて、日本の正義をアピール。一方、清は金玉均の暗殺を朝鮮政府に対して祝い、如何に朝鮮政府のことを考えているかをアピールします。
そんな中の1894年、朝鮮において外国勢力の排斥を求めた運動が始まります。何故かというと、外国製品の流入により経済的混乱が農民を中心に生じていたからです。その不満を背景に東学という民間信仰(西学=キリスト教に対する朝鮮の学問の意味)が勢力を拡大し、その地方幹部、全王奉準(チョンポンジュン)が中心となって反乱を起こしました(甲午農民戦争)。
腐敗した官僚の罷免、租税の軽減などを求めた彼らのその勢いは強く全州(チョンジュ)を占領。
驚いた朝鮮政府は、清に対し援軍を要請します。ところがそこに日本もやってきます。伊藤博文内閣は議会から「弱腰」と突き上げられていたこともあり、清が出兵するのに、わが国が出兵できないわけがない、ということで軍を派遣したのです。そして朝鮮政府の方は農民の要求を呑み(全州和約)、反乱を沈静化することに成功します。
さて困ったのが日本側です。居座る口実が無くなります。そこで、陸奥宗光外相は清に対して「共に朝鮮の改革をやろうではないか」と提案しますが、「日本は朝鮮は独立国だとしながら内政を干渉するのか」と、清が認めず、それは陸奥も解っていたようです。要は、戦争の口実作り。
日本は、念願の不平等条約のうち通商関係をイギリスと改正し、後顧の憂い無く戦いの準備を始めます。
ちなみに、それに先駆けて日本軍に対して、東学党は「逐滅倭夷」をスローガンに反乱を起こします。
しかしながらこれは鎮圧され、全王奉準は処刑されました。
ソウルにある昌福宮。1868年、高宗の時代に興宣大院君の主導によって再建された王宮です。
○開戦と戦いの行方
1894年7月25日。
漢城(ソウル)近くの豊島(ブンド)沖の海戦で日清両国が激突し、ここに日清戦争がスタートしました。そして8月1日になって日本が宣戦布告。さらに9月に清が朝鮮における拠点としていた平壌(ピョンヤン)を陥落、さらに黄海の海戦では、清ご自慢の北洋艦隊を撃ち破り、定遠を撃沈。
さらに、旅順、威海衛を占領します(なお、旅順占領で大山巌の部隊が多数の非戦闘員を殺害したとして、ニューヨークワールド紙に掲載され、世界中から非難されます)。また、北洋艦隊の提督だった丁汝昌は服毒自殺をして亡くなっています。
李鴻章も、さらには諸外国も「まさか清が負ける」とは思っていなかったようで、この敗戦は大きな衝撃を与えました。同時に、日本には清に対する侮蔑の念も植え付けることになります。福沢諭吉でさえ「文明と野蛮の戦い」とするなど、これまで中国から影響を受け続けてきた潜在的な劣等感の裏返しが表れたと考えられます。
え? なんで清が敗北したのですかって?
北洋艦隊は、李鴻章ご自慢の艦隊であり、実際にその装備も世界一流のものでした。
しかし、予算がないと装備品の補充が出来ませんし、士気も落ち、軍紀もゆるみます。・・・そう、なんと西太后が北洋艦隊の予算を頤和園(いわえん)という庭園造園のために流用していたのです。なお、頤和園はかつてイギリス・フランス連合軍に破壊されましたが、西太后が復興したため、今でもその美しい姿を私たちに見せてくれているのは皮肉と言ったところででしょうか。ちなみに、日清戦争のさなかに西太后60歳のお祝いパーティーが開かれています。あらあら・・・。
○日清条約
そこで講和会議が開かれることになり、1895年3月、山口県の下関に清国側全権大使として李鴻章がやってきます。そして下関の料亭「春帆楼(しゅんぱんろう)」で講和会議が開かれました。当然、伊藤博文を全権大使とする日本側は戦勝国として強硬な要求、例えば占領していないはずの台湾の割譲も求めます。
これに対し李鴻章は、過大な要求は清国民に対し日本への復讐心を植え付ける、今こそ日本と清が手を結び西洋列強に対抗しようと述べます。伊藤博文も陸奥宗光も「なるほど」と納得はするのですが、軍部と国民世論は完全に清を蔑視し、いくら賠償金と領土がとれるかに注目していました。交渉は一進一退です。
そのうちに、宿舎の引接寺(いんじょうじ)に戻る途中の李鴻章に、小山六之助という人物が発砲。幸い銃弾はかすり、李鴻章は顔面を負傷するに留まりましたが、流石の日本政府も焦り、取り敢えず休戦条約を結び、そして日清条約が締結されました。すなわち
一、清は朝鮮の独立を承認する
二、中国東北部の遼東(リャオトン)半島と台湾、澎湖(ボンフー)島を日本に割譲する。
三、賠償金二億両(テール)を日本に支払う
四、欧米並みの条件の対清条約を日本と結ぶ。新たに重慶・杭州などを開港する。
1912(昭和7)年に「春帆楼」の隣接地に建設された、日清講和記念館で再現されている講和条約会場。右側に清が、左側に日本の代表が座りました。講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などが展示されています。
これで伊藤博文は万々歳。
・・・だったはずでした。
ところが、この日本の動きを快く思わないロシアは、日本に対して遼東半島を清に返還するように要求。ロシアとしては、自身の南下政策において日本による遼東半島占領が邪魔だったのです。これにフランス・ドイツも同調し、一戦も辞さぬという構えに、日本は返還を決定。「臥薪嘗胆」と、ロシアに対する復讐心が国民の中に根付きます。
なお、李鴻章は洋務運動失敗の責任を問われ、この後一時的に失脚します。
また、小国日本にさえ負けたとして、さらに諸外国は清を「眠れる獅子」として笑い、列強による中国分割が進みます。
そして清の内部で二つの運動が始まります。
1つは、康有為などによる清内部の大改革を目指す変法自強運動、もう1つは孫文を中心とする清王朝打倒の運動です。
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