○徳川吉宗の政策
では、吉宗の政策を見ていこう。1.勘定所を訴訟専門の公事方と、財政専門の勝手掛に分割。職務分担で、互いに仕事をしやすくするようにした。
2.京都所司代・水野忠之(49歳)を老中に任命し、紀州藩の時と同じように緊縮財政を押し進めた。また、22年には忠之を財政専任の勝手掛老中とする。吉宗自身も倹約につとめた。
3.だらけきった旗本・御家人を引き締めるため、綱吉によって廃止されていた鷹狩りを復活。吉宗の鉄砲の腕前に幕臣達はびっくりした。
4.大岡忠相(41歳)を江戸町奉行(今でいう東京都知事)に登用。彼は、以前紀州藩に隣接する伊勢山田の奉行で、紀州藩と幕府領の伊勢山田の農民の争いを、紀州藩の圧力に屈することなく、公平に裁き、紀州藩の農民を処罰。これが吉宗に感銘を与えたのだった。で、将軍就任とともに早速登用。
彼は期待に答え、享保の改革の中心人物として活躍。火事に苦しむ江戸の道を拡幅したり、町火消し「いろは47組」を創設した。また、民政家の田中丘隅を登用し、農村の改善にも努めた。そんな彼は身分の低さからイジメにもたびたびあったらしい。吉宗は非常に心配し家禄をあげたりするなど彼のバックアップに努めた。上の人がちゃんとバックアップしなきゃねえ。どこかの首相に言ってやりたい。 もっとも、最後には抵抗勢力に負けて寺社奉行に転出させている。
仲がよいと言われる大岡忠相と吉宗だが、実のところ、よく意見が対立していたらしい。それでも起用するんだから凄い。というか、忠相さん、将軍に直言しているんだろ。あんた凄いよ。ま、何だかんだ言って2人ともウマがあったと言うことか。吉宗没後、後を追うように亡くなった大岡忠相。きっと張り合いを無くしたんだろうなあ。
5.綱吉政権下で行われた、勘定奉行荻原重秀による粗悪貨幣(宝永金銀)の大量発行はインフレの原因として、新井白石が金銀貨の質を高めることにした。吉宗もこれを引き継いだが、新旧硬貨の交換が進まなかったため、法律で宝永金銀の使用を禁止。4年後にすべて新貨に切り替えた。 ちなみに前回は書きませんでしたが、この荻原重秀という人物。何も貨幣に金銀を使う必要はない。こっかの信用が大切なのであって、貨幣など瓦でも良い、とこの時代、既に金本位制を否定。凄い人物だと思う。
6.ゴミの不法投棄を厳罰に処することを決定した。ゴミ運搬業者が川にゴミを不法投棄し、経費節減していたことが問題になったのである。
7.代官の大量解雇。それまで世襲型の代官が多かったため、これを有能な官僚型代官に変えることにした。彼らを使って、年貢の増徴率アップを図ることになる。
8.増え続ける訴訟の迅速な処理を行うため、判例を整備させた。老中の松平乗邑(のりさと)を編集主任とし、1742年に「公事方御定書」を完成させた。