第10回 ローマの戦争・ポエニ戦争とマケドニア戦争
○今回の年表
前367年 | リキニウス・セクスティウス法が発布。これ以後、貴族と平民が対等に。 |
前336〜前323年 | ギリシア全土を支配下に置いた、マケドニアのアレクサンドロス大王大遠征。 |
前264〜前241年 | 第1次ポエニ戦争。カルタゴVSローマ。 |
前221年 | (中国)秦の始皇帝が、中国全土を支配下に置く。 |
前218〜前201年 | 第2次ポエニ戦争。カルタゴVSローマ。 |
前215〜前205年 | 第1次マケドニア戦争。マケドニアVSローマ。マケドニアに有利な条約が結ばれ集結。 |
前202年 | (中国)前207年に秦が滅亡し、最終的に劉邦を皇帝とする「漢」王朝が成立。 |
前200〜前197年 | 第2次マケドニア戦争。マケドニア敗北。前146年には、マケドニアは属州に。 |
前180年頃 | (インド)インド最初の統一国家、マウリヤ朝が滅亡 |
前149〜前146年 | 第3次ポエニ戦争。カルタゴVSローマ。カルタゴ滅亡。 |
○このころのローマの風景
コロッセオ近くの案内板を撮影したものですが、当時は大体こんな感じの雰囲気だったようです。この場所がローマの心臓部で、政治・祭礼の中心であるフォロ・ロマーノや、後に高級住宅街になるパラティーノの丘などが、図の中心にあたります。この場所は後のローマ帝国時代に至るまで、どんどん発展していきます。若干角度は異なりますが、ほぼ同じ場所が帝政時代には、このとおり。発展しつつも同じ場所に存在し続ける競技場、チルコ・マッシモがないと、どこがどこやら??
○ローマの対外関係
さて、前回はローマの勃興と内政についてみていきましたが、今度は外交関係をみます。イタリア半島には、当然の事ながらローマ人だけが住んでいたわけではありません。エルトリアについては前述しましたが、その他ラテン人の諸都市が周辺にあり、ローマと同盟しました(ラテン同盟)。しかし、ローマが横暴だったたため反抗もします。また、イタリア北部からはケルト人など異民族が侵入してきてローマにとって悩みの種でした(もちろん、異民族からすれば各地に進出するローマこそ悩みの種であったといえる)。また、イタリア半島南部のギリシア人は弱いながらも目障りでした。
しかし前3世紀にはイタリア半島の大部分を支配するまでに成長し、また各都市とは待遇に差をつける分割統治の姿勢で臨むことにしました。待遇に差をつけたのは、一致団結して反抗されないためでもあります。また、前272年にはギリシア人の都市も降伏させました。
このようにローマが急成長した理由はいくつか考えられますが、前312年のアッピア街道を初めとする道路の整備、要所な都市に設けた軍事拠点などがあげられるでしょう。
そしてイタリア半島が統一されると、ローマは地中海に目を向けます。そのため、この頃に地中海で覇権を持っていた北アフリカのフェニキア人植民地カルタゴと戦うことになります(最初の頃は平和条約を結んでいましたが)。そして、アレクサンドロス帝国の後継国の1つ、アンティゴノス朝マケドニアとも戦います。それが、前者とはポエニ戦争、後者とはマケドニア戦争ということになります。
では、ポエニ戦争・マケドニア戦争、及びそれにまつわる人間について見ていきましょう。
○第1次ポエニ戦争〜開戦の原因〜
ポエニ戦争が起こった原因は、簡単に言ってしまえば地中海の覇者を巡っての争いです。直接的には前264年、シラクサ島東北部を占拠する傭兵団「マルメティニ」が、シラクサ王ヒエロン2世に討伐を受けた際、ローマとカルタゴに援軍を求めた事にあります。
この時、主導権を巡ってか、それとも「何でここに貴国の軍がいるんだ、出兵してくるなんて聞いていなかったぞ」、とか色々理由は考えられますが、とにかくローマとカルタゴは戦争を始めたのでした。おそらく、理由なんてどうでも良かったのでしょうね。
この戦いは何と、約20年に及び、前241年にローマが勝利します。そしてローマは、シラクサ島を初めての属州として手に入れます。属州とは、海外領土という意味です。そして、カルタゴはサルディーニャ島をローマに割譲。これが、第1次ポエニ戦争で、この時手に入れた領土と既に支配していた領土が、現在のイタリア領の基本となっています。その他、コルシカ島もローマ領になっています。
○第2次ポエニ戦争
それから時は流れ、前218年。
カルタゴは名将ハンニバルを中心に、ローマに対し復讐戦を始めます。このころ、カルタゴは、ハンニバルの一族の努力でヒスパニア(今のスペインなど)を手に入れていました。そのため、ここを拠点に、なんとアルプス山脈を越えローマに背後から侵攻するという荒技を行います。
ハンニバルは優れた将軍で、部下から信頼されていました。そんな軍団がいきなり現れたのですから、ローマ軍はビックリ。必死に戦いますが、前216年にカンネーの戦いで大敗を喫します。
ところが、ハンニバルの猛攻もここまででした。本国からの補給がない上、ローマの結束力が意外に堅く、市民の総力戦のようになってしまったためです。戦いは一進一退。ハンニバルは無駄に時を過ごします。
そんな中、ローマではスキピオ(前235頃〜前183年)という青年が将軍になり、ヒスパニアに侵攻、途中ハンニバルの弟ハスバルドルを敗死させ、これを占領します。さらに、彼は執政官(コンスル)に就任すると、今度はカルタゴ本国に侵攻。あわてたカルタゴは、ハンニバルを呼び戻しますが、前202年、カルタゴ東南部で行われたザマの戦いでハンニバルは敗北。こうして、カルタゴは降伏し賠償金を払う事と、戦争はローマの許可無く行えないと約束させられました。
余談ですが、スキピオはこれで一躍英雄に。ところが、彼はマケドニアなどのヘレニズム諸国との宥和政策を打ち出したため、国粋主義者の反発を買います。スキピオと犬猿の仲のカトー(曾孫と区別して大カトー)は、シリア王アンティオコス3世の賄賂をスキピオが受け取ったと告発。スキピオは引退を余儀なくされ、52歳で失意のうちに病死する事になってしまいます。
また、ハンニバルはカルタゴで行政改革にあたっていましたが、親ローマ派に追いつめられ、シリア王国に亡命。前190年にはなんとシリア軍を率いてローマと戦い敗北(後述)。そのためローマの要求で、結局自殺させられます。両者の死は、奇しくも同じ前183年でした。
○マケドニア戦争
ここで舞台はギリシャへ。ギリシャでは、アンティゴノス朝マケドニアが影響力を持っていました(地図では紫色の部分)。同王国のフィリッポス5世(位、前221〜前179年)は、「ローマの勢力拡大は危険だ」と考え、カルタゴのハンニバルと同盟します。
前215年、ローマとマケドニアは戦争状態になります(第1次マケドニア戦争)。しかし、ローマとしてはあまり戦線を拡大したくない。そこで、前205年に、ローマはギリシャをマケドニアの支配から解放する事に成功したところで、マケドニアの顔を立てた条約を結び終結させます。この時、ローマはギリシャの大幅な自治を認めたため、ギリシャに大喝采されました。
ところが、マケドニアはローマを倒すために、仲の悪いシリア王国のアンティオコス3世と同盟。
強敵の出現にローマは、これを黙ってみておくわけにはいかず、やむなく戦争に(第2次マケドニア戦争。前200〜前197年)。これに勝利すると、うやむやな条約を結び、さっさと撤退します。前190年、アンティオコス3世もギリシアに向けて侵攻しますが、ローマに敗北。シリアはヨーロッパと小アジアの領土を放棄させられました。なお、この時シリア艦隊を指揮したのが元・カルタゴの将軍ハンニバルです。ローマを倒せと、執念ですね。
ちなみに、当時のギリシアは貧富の差が拡大。富裕層がローマ側とくっついていたため、貧困層はマケドニアに期待するようになります。これを受けてフィリッポス5世の息子ペルセウスは、ローマと開戦。ローマは、今度は徹底的にマケドニアを倒す事にしました。スキピオの友人パウルス率いるローマ軍は、ピュドナの戦い(前168年)でマケドニアを大敗させ、アンティゴノス朝は滅亡。前149年にはマケドニアはローマの属州となりました。
ちなみに、この戦いの後、帰還兵を情報の発信源としてヘレニズム文化が大流行になります。ローマ文化は質実剛健でしたが、ヘレニズム文化の影響により明るく華やかな文化に変わってしまいました。
もちろん、苦々しく思う人物もいます。例のスキピオと犬猿の仲で国粋主義者のカトーです。彼は、これを非常に嘆いていました。また、彼は死の直前まで復興著しいカルタゴの破壊を提言。その頃、カルタゴがローマの許可無く戦争をしてはいけないという決まりを利用して、カルタゴに侵攻していたヌミディアという国の王マッシニッサ(なんと88歳!)が率いる軍の挑発に乗り、ついにカルタゴは勝手に開戦してしまいました。
いい口実です。ついにローマはカルタゴ滅亡を実現すべく、動き出します。
○第3次ポエニ戦争
大将は、スキピオの長男の養子・通称小スキピオです。前149年、小スキピオ率いるローマ軍はカルタゴ本国へ侵攻。3年の包囲の末、総力戦で臨んだカルタゴを破ります。そして、ローマはカルタゴを徹底的に破壊し、住民を奴隷として売り飛ばします。その上で、ローマはこの地に属州をおき拠点として再整備をするのでした。カルタゴ滅亡時、燃えさかるカルタゴを見ながら、
「ローマもいつかこうなるのだろうか・・」
と小スキピオは嘆いたと言われています。
ところでカルタゴ滅亡の原因。いくつかありますが、戦争で言えば兵士の結束力にあります。市民から徴用した愛国的なローマ軍に対し、カルタゴ軍は異民族から徴用した、しかも傭兵部隊でした。いくらハンニバルらが優秀だからといえ、なんとその前に反乱が起き、虐殺さえしていました。
余談ですが、アテネ衰退の原因も傭兵の使用。しかし、傭兵はその後のローマでも使用されるようになり、ヨーロッパでの戦争は、18世紀頃まで、基本的に傭兵が行うことになります。この点、日本や中国が、自分の領地の農民を徴兵したのとは大きな違いです。もっとも、日本にいた武士も元々は平安貴族の傭兵。しかし、その後力をつけ、貴族に代わって日本を支配するようになりました。
○この時代のローマ建築
真実の口で有名な、ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の向かい側に残る、ヴェスタの神殿。紀元前2世紀後半に建てられたといわれ、ローマに現存する最古の大理石建築です。ヘラクレスに捧げられたものだとか。その北向かい側の小さな神殿も古いもので、これは紀元前2世紀に建てられたフォルトゥーナ・ヴィリリス神殿。港の神に捧げられたものです。
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