第9回 古代ローマの誕生と発展
○今回の年表
前770年 | (中国)周が、異民族の圧迫で東の洛邑に遷都。 |
前753年 | 伝説上のローマの建国。 |
前556〜前486年 | 仏陀が仏教を開く。 |
前509年 | 支配者のエトルリア人を追い出し、共和制を開始(伝説上)。 |
前500〜前449年 | アケメネス朝ペルシアとギリシャ連合軍によるペルシャ戦争。 |
前494年 | 貴族と平民の対立の結果、護民官が設置される。 |
前431〜前404年 | ペロポネソス戦争(アテネVSスパルタ)。最終的にスパルタが勝利。 |
前367年 | リキニウス・セクスティウス法が発布。これ以後、貴族と平民が対等に。 |
前336〜前323年 | ギリシア全土を支配下に置いた、マケドニアのアレクサンドロス大王大遠征。 |
○ローマ誕生
ギリシアの地に、ドーリア人が南下した前12世紀頃。イタリア半島においては、後にギリシャ人によってイタリキと呼ばれるインド=ヨーロッパ語族系の民族が南下します。さらに前6世紀頃、イタリキの一派ラテン(ラティニ)人の中の、さらに一氏族が、現在のローマの地に国家を建国。のち、エトルリア人系の王を追放し、共和政の国家を樹立します。
詳しく見ていきましょう。
どこまで信用して良いか解りませんが、ローマ建国神話によると、トロヤ戦争で敗北した将軍アイエネスと、ラテン人の女王ラウィーニアとの間に生まれたシルウィウス王の末裔の子孫である、ロムルスとレムルスという双子のうち、ロムルスがラテン人のうち約3000人を引き連れ、ローマの地に目を付けて建国したことに、ローマの歴史が始まります。
なお、この双子は軍神マルスの子で、オオカミに育てられた、とも言われますが、いくら何でもこれは信用に値しませんね。ただ、それほど建国に苦労した、と言うことを表しているのかもしれません。ちなみに、レムルスはロムルスによって殺されてしまったそうです。
狼に育てられるロムルスとレムルスの像(ローマ市内にて)
さて、ロムルスは王、元老院、市民集会という3権分立の体制を作ります(ただし、何だかんだ言って王の権力が強い)。
王は当然初代がロムルス。
彼が悩んだのは、人口不足でした。しかも、血気盛んな独身男性ばかりが多かったのでしょう。子供を産ませるためには女性が必要。そこで彼は、ローマの若者たちを引き連れ、近隣のサビニ人の集落から若い女性たちを略奪して強引に結婚させてしまいました。当然、戦争になるのですが、サビニの女性たちが「夫も親も、どちらも失いたくない、戦争をやめてくれ」と懇願して戦争を終結させました。
女性たちとしては、ローマ人は憎い相手ですが、意外と愛情をかけてくれたこともあって次第に情が移っていました、しかもサビニ人の方が戦争は劣勢で、このままだと滅んでしまう状況でした。涙ながらに懇願したところ、ロムルスとサビニの王は和平を結び、さらにロムルスは「いっそのこと、ローマとサビニで一緒になってしまおう!」と提案。そりゃあいい、と言うことで対等合併しました。
この話は、しばしば絵画の題材になっています。しかし、何だか戦争で死んだ人が可哀想・・・。
続いて第2代の王が、ヌマ・ポンピリウス(紀元前750年〜前673年)。彼はサビニ人です。
(在位:紀元前716年〜紀元前673年)
そして、第3代がトゥッルス・ホスティリウス(紀元前710年〜前641年)というローマ人。
(在位:紀元前716年〜前673年)
第4代がアンクス・マルキウス(紀元前675〜前616年)というサビニ人。ヌマの孫です。
(在位:紀元前673年〜前641年)
この時代の王は伝説上の人物という感じなので、どこまで史実かは不明ですが、ご覧のようにローマ人とサビニ人で交互に王を選出する決まりになっていたようです。
第5代が、タルクィニウス・プリスクスというギリシャ人とエトルリア人の混血の人。非ローマ人ですが、資質を見抜いたアンクス・マルキウスが養子としました。王に当選すると公共工事などでローマの街を整備した他、サビニ人の反乱鎮圧や、エトルリア人が支配する都市を幾つも攻略し、ローマの勢力を拡大します。しかし、最後はアンクス・マルキウスの実子に殺されてしまいました。
(在位:紀元前616年〜前579年)
チルコ・マッシモ
ローマで好評を博したチルコ・マッシモという戦車競技場。そのの原形を造ったのは、プリスクスと伝承されています。
チルコ・マッシモ復元図 (コロッセオ近くの案内板より)
当時はこんな感じの施設だったようです。
第6代が、セルヴィウス・トゥリウス。この人はエトルリア人。奴隷の息子とも言われるほど身分は怪しい人物でしたが、先代の王が引き立て、元老院の議決で王に就任ました。彼はローマ軍を良く整備し、彼の治世ではローマ軍が連戦連勝となります。
(在位:紀元前578年〜前535年)
○尊大なタルクィニウス
問題が第7代目の王、ルキウス・タルクィニウス・スペルブスです。(在位:紀元前535年〜前509年)
通称「尊大なタルクィニウス」又は傲慢王と呼ばれた人物で、彼は第5代の王プリスクスの息子。さらに、第6代セルヴィウスの娘婿です。彼は、セルヴィウスを「生まれも定かでない人物を国王にするのはどうか」と弾劾し、さらにセルヴィウスを元老院の階段から突き落とす。そして息も絶え絶えになった王は、尊大なタルクィニウスの妻、すなわち自らの娘トゥーリアに殺されてしまいます。
尊大なタルクィニウスは実力で国王の座に就きます。反対する元老院議員を殺し政治を行います。
何でこんな荒技が出来たかというと、ローマに住むエトルリア系の住民の支持があったんですね。ちなみに、エトルリアという国はイタリア半島北部にあって、これが非常に強力でした。で、尊大なタクィニウスは出身民族だったエトルリアと太いパイプを築き、ローマはまるでエトルリアに支配されているような状況に。
そのためローマ人たちが苦々しく思いますが、この尊大なタルクィニウスは軍事的な才能も豊かでした。
しかも、バックにはエトルリアが。
・・・と、こ、ろ、が。
スキャンダルが起こります。なんと、尊大なタルクィニウスの息子セゥトゥスが、親戚の人妻ルクレツィアに恋をして、しかも彼女を襲うんですね。で、奪っていくのかと思いきや、それで終わり。とんだ侮辱です。ルクレツィアは「仇を討つように」夫であるルクレティウスに懇願すると、彼の前で自殺して死にました。
○王を追放せよ!
その場にいたのが、ルクレティウスの友人ルキウス・ユニウス・ブルータス。彼は王がローマから出陣しているときに、「王は先代の王を殺して・・・」と演説し、不満を抱いていたローマ系住民の支持を得ます。当然、不穏な動きをキャッチした尊大なタルクゥィニウスはローマへと戻ろうとしますが、ローマの城門が閉じられ追放されてしまいました。彼はエトルリアへ亡命しました。ちなみに、馬鹿息子のセゥトゥスは、恨みをもたれていた人に殺されたそうです。
カストルとポルクスの神殿
一方、亡命したタルクィニウスは、ローマ近隣のラティウム人(ラテン人)などによるラティウム同盟(ラテン同盟)の支援を得て、ローマに対して反旗を翻します。これを第一次ラティウム戦争といい、タルクィニウスらは敗北して、彼は程なく没しました。
上写真は第一次ラティウム戦争の中でも激戦だった、レギッルス湖畔の戦いに於いて、共和政ローマが勝利したことに感謝を込めて建設されたもの。この戦いで、伝説ではカストルとポルクスが現れたとされ、古代ローマの政治の中心地である、フォロ・ロマーノには、上写真の神殿が建てられました。ちなみに現在も一部が残っているものは、火災に遭ったため、ローマ帝国第2代皇帝のティベリウスが紀元前6年に再建したものです。
・・・と、ここで少し話をずらしまして。
その頃イタリア半島にいたのは、先住民族のエトルリア人(主に北部に)、それからラテン人の諸族、および植民市を建設したギリシャ人達。ローマ人達は、まず周辺のラテン人諸族を倒し、そして統合し、さらにエトルリアを滅ぼします。どうやら、エトルリアに支配を受けていたことがよほど恨みだったらしく、前1世紀頃までにその影を出来る限り消してしまいました。そのため、エトルリア人達については、現在でもよく解らないことが多いです。さらに他の民族も殺されたり統合されたりで、消えていきました。
ちなみに、現在解っているエトルリア人の生活で、家族関係があります。それは、ギリシア人や、ラテン人達の社会では、比較的「家長」の権限が強いのに対し、エトルリアでは女性の地位も比較的高かったとか。それは、宴席に同席している女性の姿を描いた物から推測されます。宴席に女性が同席するなんて、ギリシアでは考えられないことです。
とまあ、このようにローマの領土は拡大の一途をたどっていくのです。
ローマの特色として、滅ぼした民族をどんどんローマ人として統合していくんですね。この辺が、ローマがこの後大帝国に急成長する原動力になったと思われます。
○共和制ローマ
さて、王を追放すると、ローマは共和政への道を歩み始めます。ブルータスは、「執政官(コンスル)」を王のかわりに設置しました。代わりですから権力的には大差ないのですが、その代わり、「必ず市民集会から2人選ばれ、任期1年」として制限を設けます。
ところがその後、人々は、ギリシアと同じく貴族(パトリキ)と平民(プレブス)に別れ、いがみ合います。
執政官(コンスル)も元老院も、ポストを貴族が独占していたのです。 当然平民側は面白くありません。
やはり戦争の主役が、貴族による騎兵から、異民族の侵攻に対抗するために平民による重装歩兵に変わると平民達は権利を要求していきます。すなわち、平民達は「異民族が侵攻してきても戦わないぜ」という態度を武器に、長い年月をかけながら少しずつ貴族から譲歩を勝ち取っていくのです。
まず、前494年には貴族の専横から平民を守る役職、すなわち護民官が設置されます。これには民会から選ばれた平民が就くことになりました。当初は2名、後に10名になったといわれていますが、諸説あります。また、護民官は次第に権力を拡大し、民会決議や元老院決議に介入する権限を持つようになります(そのため、後世になると買収が行われ、腐敗してしまった)。
次に、前451年頃、10人の委員の起草で、ローマ最古の包括的な法典、十二表法が成文化されます(十二枚の銅板に刻んだことから付いた名前)。それまで法律は貴族が独占していて、平民には知らされていませんでした。そのため、平民は何時どんな理由で貴族に処罰されるか解らなかったのです。ちなみにこの十二表法の内容ですが、記録に残っていて大体のことは解っています。例えば・・・。
1.原告が被告を法廷に召喚したら、被告は出頭しなければならない。出頭しなければ代わりに証人が召喚される。その後に原告は被告を逮捕せよ。
4.この法は父親は息子に生殺与奪権を与える。
などと家族と、裁判に関する内容が書かれています。父親に息子に対する生殺与奪権があるということは、いかに父親の権力が大きいかを示していると言えるでしょう。
また前445年、護民官カヌレイウスの提案により、貴族と平民の通婚が認められます。さらに前367年のリキニウス=セクスティウス法は、2名の統領(コンスル)のうち1名が平民にも開放される事、及び土地所有に制限を加えることを定め、その後も前356年に独裁官、監察官(前350)、法務官(前337)、神官・卜占官(ぼくせん)(前300)と重要な役職が、少しずつ平民に開放されていきます。
さらに、前287年には民会の決議が元老院の承認を経なくても国法になることが定められました(ホルテンシウス法)。ただ、平民全員がこのような会に参加したかといえばそうでなく、結局のところ富裕な平民(新興貴族、ノピタリス)が有利になったような感じになりました。そして、こういった新興貴族は貧しい市民達と、親分=子分の関係になり(つまり、貧民の面倒を見てやることで支持を取り付けるわけ)、政治活動をしたと考えられています。
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