第15回 応用に富んだローマ文化

○高度な土木技術

 ローマ人達は、あの高度なギリシア文化にあこがれましたが、自分たちで独創的な文化を創り出すことは出来ませんでした。しかし、特に建築を中心に、ギリシア人達が確立した基礎知識を元に、華開かせることに成功し、現在の基礎となる高度な文化を築きました。

 例えば道路。ギリシア人達は、基本的に自然の地形に沿って建設しましたが、ローマ人達は整地をして自然を切り開き、まっすぐな道路を造りました。また、神殿にもローマらしさが見受けられます。それは、ギリシアが外から見る神殿だったのに対し、ローマは内装にもこだわります。

 それは、重力を分散する構造である丸いアーチと、それを可能にするコンクリートの実用に成功したからです(道路はコンクリートの登場で飛躍的な発展を遂げたのだ)。コンクリートは、石灰と砂利に火山灰を結合させることで、実用出来ました。これにより、梁や柱の組み合わせにのみ左右される事が無くなり、曲面を多様に使った建築がでます。



水道橋 (ローマ市内にて)
 ローマのすごいところは、征服地にも道路・神殿、それからそれを応用した上水道である水道橋フォロ(広場)パシリカ(集会所)円形闘技場凱旋門といった建造物を次々建設していったことです。これにより、「すごいなあ」と被征服民に思わせ、尊敬させることに成功しました。それだけでなく例えば水道橋は安定した水の供給に寄与します。

 ローマは、征服地のインフラ整備をしっかり行ったのです。そうでなければ、あれだけの領土を維持することは出来ません。なお、スペインでは現在も使用されている地域があります。それほど、しっかりとした作りなのです。

 また、ローマでは現在のアパートの原形もでます。ローマの街の人口は1世紀初めには100万人、2世紀には150万人で、急激な人口増加による住宅不足が問題でした。そこで、建設されていったのが、数階建ての集合住宅(インスラ)です。庶民のものだけでも4世紀には4万7000棟もあったそうです。


ポンペイの大劇場

○浴場



 それから、ローマといえば浴場です。大規模なものだと、上写真と同じ角度から見た復元図の、カラカラ浴場が挙げられます。212年から216年にかけて、カラカラ帝の時代に建造されたもの。


 往時は、このような巨大な施設でした。ローマ市民にとって、浴場は一大エンターテイメント施設だったわけですね。



 ちなみに、今も当時のモザイクタイルが現存しており、その高度な技術にも目を見張ります。


 カラカラ浴場ほど大きくないにしても、地方都市でも浴場は重要な施設。こちらは、ポンペイの公衆浴場。この部屋には大理石製の水盤があって、水盤中央の穴からお湯が出る構造です。人々は、このお湯で体を洗いました。


 こちらもポンペイにある別の公衆浴場で、運動場やプールも供えたスタビア浴場です。

○文学

 さて文学。ローマ建国の叙事詩を詠ったヴェルギリウス(前70〜前19年)は有名な人物。ただし、この人物を含めその他の詩人はギリシアの模倣に終わりました。って、どの辺が模倣かは私には解らないですけど。

 後世に最も影響を与えた文人は、やはりキケロ(前106〜43年)ですね。散文家・雄弁家として名高く、特に彼の弁論術はその後も真似する人が出て行きます。また、哲学世界ではネロ帝の先生セネカ(前106〜前43年)、それからエピクテトスマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝です。マルクス帝は、戦争中に自省録という本を著し、ひたすら反省しています。これら、ストア派の哲学です。
 歴史の分野では、リヴィウス(前59〜前17年)がローマ史を、タキトゥスがゲルマン民族について「ゲルマニア」を、カエサルがガリア遠征について「ガリア戦記」を書いています。

○衣食住、奴隷の話

 続いて食事の話。ローマに住む人々は、「パンとサーカス」の政策により、食糧の配給を受けていました。彼らは、朝と昼は、(2世紀頃から焼き始めた)パン、それからチーズを食べ、夕食には豚やクジャクの肉などを食べました。



ポンペイに残るパン屋さんの跡。石釜も現存していますね


 ただ、その一方で奴隷が働かされていたのも、見逃してはいけません。 但しこの奴隷。主人によって解放されることもしばしばありました。戦争で奴隷になった人達が多く、主人の中にはそれを哀れんで、自分が死ぬ時に「我が家に尽くしてくれた***を自由にする」と遺言することがしばしばだったのです。

 もう一つ、ローマで忘れてはいけないのが服装。あのローマ人達の白い絹の服装は、あまりに有名ですがローマの絹ではありません。なんと、遠く中国のから中央アジアを通り、輸入されたものです。そのため、中央アジアの大陸横断道路はシルクロード(絹の道)と呼ばれます。しかし、ローマの人達が漢の国の存在を知ることはありませんでした。

 逆に漢では西にある国の存在に興味を持ち、使者を派遣します(甘英という人物)。しかし、シリアにおいて「この後まだ数十年かかるよ」と脅され、引き返してしまいました。シリアの商人達が、ローマと漢が直接交易を始め、中間マージンが消えるのを恐れたからです。

 その後、2世紀にはヴェトナムまでマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の使いが派遣され、「大蓁国王安敦」と歴史書に記されたとされますが、はたしてアントニヌス帝の使者なのかは不明です。

 このように、交易は盛んでありローマの金貨は中東、さらには東南アジアでも発見されます。国際通貨として使用されたのです。実際、小麦粉、香辛料などローマで使われた食材はエジプトを始め、遠くは東南アジアから輸入されたものが多く見られます。

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