第31回 大航海時代
○今回の年表
1347〜51年 | ペストの大流行。ヨーロッパの人口が激減。 |
1368年 | 中国で元が滅亡。漢民族王朝・明が誕生する(1644年まで)。 |
1415年 | エンリケ航海王子が、セウタ島を攻略。 |
1429年 | ジャンヌ・ダルクがオレルアンの街を解放。 |
1453年 | 東ローマ(ビザンツ)帝国滅亡。 |
1455〜85年 | バラ戦争開始。 |
1479年 | スペイン王国誕生。アラゴンとカスティリャが連合。 |
1488年 | ディアスが南アフリカの喜望峰に到達。 |
1492年 | コロンブスがアメリカに到達。 |
1517年 | ルターが95箇条の論題でローマ教会を批判。 |
1519〜22年 | マゼラン一行が世界一周を果たす。ただし、マゼランは途中で死去。 |
1521年 | スペイン人コルテスがアステカ王国を滅亡させる。33年にはインカ帝国も滅亡。 |
○スペイン・ポルトガルの海外進出
さてさて、レコンキスタを終えたスペイン、そしてポルトガルのお話です。当時、ヨーロッパ世界で貿易といえばヴェネツィア共和国の商人達によって事実上独占されていました。しかし、小アジアを支配し、1453年に、ついにビザンツ帝国も滅ぼしたオスマン・トルコ帝国は貿易に対して高い関税をかけてきました。そのため、ヴェネツィアとのシャア争いに負け、さらに関税までかけられた多くのイタリア地域の商人が、ポルトガル人と組んで大西洋を利用した貿易ルートを造ります。
同時に、ペストによる影響を受けず、人口が増加傾向にあったスペイン・ポルトガルの君主も、就職口確保と、貿易による経済的利益を欲していました。特にコショウを中心とする香辛料はヴェネツィアにより独占的な利益を与えてました。また、オスマン・トルコ帝国による中間マージン削減分をこれを無くし、これらを自分たちの利益に出来れば・・・そう考えたわけです。
そのためには、地中海、小アジアルートを通らずに、インドや東南アジアへの香辛料を輸入するルートを確立しなければなりません。また、一般の人々も、中国の元(チンギス=ハンの孫、フビライが中国にたてた王朝)を訪問したマルコ・ポーロが述べて、それをルスチケロが書き取り、執筆した「世界の記述(日本で言う東方見聞録)」に描かれたアジアの記述にロマンを感じ、冒険に駆り立てられます。なお、マルコ・ポーロについては存在が疑問視されています。おそらく、ルスチケロが様々な人の話をまとめた、と言ったところではないかと思うのですが、如何でしょうか。
さらに、航海技術も大きく進歩します。中国(宋)で生み出された羅針盤、イスラム世界の、緯度を測るアストロラーベなどなど・・・。そして、最大の進歩は「船」です。それまで、ヨーロッパの船は、古代から使われてきたガレー船とよばれるもので、マストが1本で多くの人が漕ぐもの。それが、イスラムの三角帆(ラテンセイル)を参考に、三本マストを取り入れることにより、ガレオン船となることで、逆風下でも航海ができ、また人員の削減が可能になり、遠洋航海が出来るようになりました。
また、16世紀になると商戦も武装するようになり、大砲を積み込み、他の地域を圧倒するようになりました。
ここに、インド航路開拓、アメリカ発見、世界一周といったヨーロッパの世界進出、大航海時代が始まります。
○ポルトガルのインド航路の開拓
インド航路開拓の先駆け的な存在が、ポルトガル王国ジョアン1世の第3子のエンリケ航海王子。その名があらわす通り、王家の人間で航海に大きく貢献した人物・・・と言えばそうでもなく、「結果的にそうなった」と言った方が良いかも知れません。で、どんな人物かというと、1415年に北西アフリカのセウタを占領し、ザクレス岬に航海研究所をつくるなど、西アフリカの開拓に生涯を捧げた人物です。
彼は、部下達に航海・探検を命じ、これがポルトガルは海洋国家への飛躍を遂げるわけですが、エンリケ王子は、この地域のイスラム教徒討伐と、彼らからの領土・金銀の略奪が目的でした。さらに、当時アフリカにはキリスト教国家とプレスター・ジョンという王があると信じられており(エチオピア王国と古代コブト教のこと、コブトは古代キリスト教がそのままアフリカに残ったものである)、彼と手を組みイスラム国家を倒すことを夢見ていたようです。
何はともあれ、彼は部下を次々と派遣し、彼の死ぬ1460年にはシエラレオネ(現在のギニアとリベリアの隣)まで到達しました。また、航海当初は大型ボートに帆を張った程度の船を使用していましたが、これも三本マストに三角のマストという堂々たるものになりました。
インド方面への到達が目標になったのはエンリケの死後、1485年頃からです。国王ジョアン2世はバルトロメウ・ディアスを隊長に任命し、87年8月にリスボンを出航させます。そして、ディアスは88年2月にアフリカ大陸の南端を回り、フレッシュ湾に到達し、ついにアフリカ大陸の南端を越えました。
その帰路、その南端の台地にたちより「嵐の岬」と名づけます、が、これはジョアン2世が喜望峰と改名します。
そして、スペインのコロンブスがアメリカ大陸に到達すると(彼はインドと信じていたが)、1494年、これを受けてスペインとポルトガルはトルデシリャス条約を結びます。簡単に言えばアメリカ方面はスペインのもの、インド方面はポルトガルのもの、という世界を2分割して支配しようと言う、とんでもない条約です。図に線を引いておきましたので、確認してください。
条約を結んだものの、まだインドにたどり着いていないポルトガル。ジョアン2世のあとを継いだ、マヌエル1世はヴァスコ・ダ・ガマを派遣。1497年7月、4隻の船と乗員168名で出発した彼らは、途中見つけた水先案内のインド人に案内してもらい、翌年の5月にたどり着きました。
インドに着くとビックリ。コショウが、ポルトガルでの200分の1の値段で売られていました。そこで、マゼランが帰還すると、1500年にカブラル率いる船団をインドに派遣。
この艦隊はブラジルに漂流し(ただし、ブラジルを発見することでここはポルトガル領になった)、さらに同行したディアスの乗った船は喜望峰に遭難し死亡するという事件が起こりましたが、カブラル隊はインドに到達。カレクーというところに商館を建設。これは、イスラム商人と紛争し、焼き討ちされ、さらに報復攻撃をやったあと、カレクーの町と対立していたコチンに商館を建設。以後、香辛料貿易でポルトガルは大儲けです。
また、これでコショウの値段も下がりました。さらに、その後ポルトガルは本格的に東アジア経営に乗り出し、インド総督(副王)をおき、その後ゴアを本拠地に。さらに1511年には東南アジアのマラッカ王国を滅ぼし、この地を支配。1557年には、中国を支配する明から、今の香港の近くである、マカオに居住許可をもらい、ついに中国までたどり着きました。
(地図は、山川出版社 詳説世界史より なお、着色しています)
○コロンブスのアメリカ発見
一方、スペインも負けてはいません。少し前述しましたが、ここで詳しく述べましょう。1483年、イタリア・ジェノヴァ生まれのコロンブス(1451〜1506年 ユダヤ人という説が有力)は、即位間もないポルトガル王ジョアン2世に対し、若い頃の経験とトスカネリの地球球形説に基づき、「地球は丸く、さらに東に進んでインドに行くよりも、西に進んだ方が早く着く」と提案。しかし、前述したようにポルトガルは東からインドに行く方法で手一杯。これは、却下されます。
そこで1485年、コロンブスはスペインに行き、イザベル1世と夫フェルナンド2世に謁見。最初は、まだ最後のイスラム国家ナスル朝グラナダ王国が陥落しておらず、色よい返事はもらえませんでしたが、レコンキスタが完了するとイザベル1世はポルトガルに対抗する意味で、コロンブスを信任し、1492年に西回り航路開拓に乗り出すことにしました。なお、このさいにコロンブスは、自分が発見する場所の総督職と、利益の10分の1をもらうことを契約条件にしています。
同年8月3日。コロンブスはパロスの港より3隻120名の乗員で出発。この乗員、罪人などが多かったのは有名な話ですね。ほとんど流罪状態です。そして30日を過ぎても島一つ発見できなく、あわや暴動が起こりそうになります。と、その時・・・とまるでドラマのようですが、今のハバマ諸島ウォトリング島に到達。さらにキューバなどに立ち寄り、現地の人々から好意的に迎えられたあと、乗組員を少し現地に残し、さらに現地人(インディアン)を連れ、奇妙な物産を積み引き返しました。当然、スペインでは大歓迎です。
すっかり気をよくしたイザベル1世は、早速9月、コロンブスによる第2回船団を派遣。今度は大砲も積み、騎馬まで用意するという本格的な軍団です。エスパニョーラ島に着いた乗組員達は現地人を使い、砂金取りの強制労働をさせます。これに対し、現地の人は反乱を起こしますが鎮圧され、奴隷として本国に送られました。その後のスペインによる現地人強制労働の第1回目です。
その後、コロンブスは第3回目としてベネズエラ沖まで到達。ところが、ここでも現地人の反乱が起き、コロンブスは責任をとらされ総督の地位を手放すことになりました。そして、1502年に最後の航海に出ますがパナマまで行ったあと、得るものもなく帰還。2年後に死亡しました。
○アメリカの名前を付けた人
さて、コロンブスが発見したのは何の島だったのか?コロンブス自身は死ぬまでインドに到達したと信じ、先住民をインディアンと名付けましたが、他の人は違うことは解っていました。これを「そうです、この島は新大陸です」と太鼓判を押したのが、アメリゴ・ヴェスプッチ(1454〜1512年)。彼自身も航海に出て調査した結果、1503年出版の本の中で「新大陸」であることを主張。さらに、地誌学者ワルトーゼ・ミューラはこの説を採用し、彼の出した地図の中で新大陸を「アメリカ」と記しました。アメリゴ・ヴェスプッチからとった名前です。実際にこれが新大陸と確認されたのは、1513年。スペインのヴァスコ・バルボアがパナマ海峡を横断し、太平洋を発見した時です。ただし、あくまでもヨーロッパ人にとって「新大陸」なのであり、既にここでは先住民がいくつもの文明を発達させていました。
○世界一周
また、この時代。ついに世界一周をやり遂げた人達が出てきます。それが、ポルトガル人のマガリャンイス(英語名・マゼラン 1480頃〜1521年)率いる一行です。1519年、彼らはスペイン王カルロス1世の「香辛料の特産地・モルッカ諸島に、西回りでいけ」
という命令を受け、5隻の船と280人の陣容で出航。 南アメリカ南端の海峡(後にマゼラン海峡という)を通り、今の太平洋を横断。この太平洋という名前はマガリャンイスがつけました。そして、フィリピンと名付けられる諸島で、先住民同士争いに、わざわざ荷担して戦闘を開始したマガリャンイスは戦死するものの、生き残った乗組員達はアフリカ回りで帰国しました。3年に渡る航海でした。
そして、これによって地球が丸いことが証明されたのです。
ちなみに、何故ポルトガル人のマガリャンイスがスペイン王室に仕えたかというと、それはコロンブス同様、ポルトガル王室から、西回りでインドに行く提案を拒否されたからです。これに対し、イザベル1世の孫であるカルロス1世が、やはり興味を示したことが世界一周につながったわけです。夢が実現できる場所なら、どこだって良いわけですね。
ところで、フィリピンの名前ですが、スペイン皇太子フェリペにちなんで16世紀に名付けられたもの。ここが正式にスペイン領となったのは、1556年にレガスピがセブ島に上陸し、ルソン島のマニラを占領した時からです。
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