第32回 征服と侵略、そして価格革命

○今回の年表

1488年 ディアスが南アフリカの喜望峰に到達。
1492年 コロンブスがアメリカに到達。
1511年 ポルトガルが、東南アジアのマラッカ王国を滅ぼし、ここを占領する。
1516年 スペインで、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が即位(〜56年)。
1517年 ルターが95箇条の論題でローマ教会を批判。
1519〜22年 マゼラン一行が世界一周を果たす。ただし、マゼランは途中で死去。
1521年 スペイン人コルテスがアステカ王国を、33年にはピサロがインカ帝国を滅亡させる。
1529年 オスマン・トルコ帝国が、ウィーンを包囲。
1534年 イギリス国教会発足。ローマでは、イエズス会発足。
1543年 ポルトガル人が日本上陸。種子島で火縄銃を伝える。49年にはザビエル来る。
1547年 ロシア帝国のイヴァン4世が、皇帝(ツァーリ)を名乗る
1550年 モンゴル(タタール)のアルタン・ハンが、北京を包囲。
1571年
スペインが、フィリピンにマニラを建設する。

○アステカ王国の滅亡

 さて、ヨーロッパ人達は新大陸に到達すると、まず食糧問題を解決しなければいけませんでした。しかし、先住民とのコミュニケーションはうまく行かず、なかなか上手く食料はもらえない。そこで、手っ取り早く火縄銃で先住民を殺して略奪するという方法がとられました。それは、一つにはヨーロッパ人の非キリスト教徒に対する優越感があり、もう一つは未知の地で生活する事への恐怖があったのだと思われます。

 こうしてアメリカ大陸の先住民達は、紀元前からはぐくんできた独自の歴史・文化に終止符を打たされ、ヨーロッパのシステムの中に加えられていくことになります。そしてスペイン王国では、コロンブス以降、新大陸遠征を企てる民間人に、特権を与える代わりに発見された財宝の5分の1と土地管轄権の国家へ帰属を認めさせる契約(協約=カピトゥラシオン)を結ばせ、新大陸征服への意欲を出させます。こうして、新大陸征服が始まったのです。

 さて、新大陸発見といっても最初はカリブ海が中心で、1515年頃キューバのスペイン人達は、大陸内部への探検が始まります。その中でメキシコに住むマヤ族を発見。彼らはカリブ海の人達と違い、裸ではなく木綿の服を着て、筋の首飾りをしていました。「金」です。ここには金があるのか、とさらに探る内に見つけたのが、大国アステカ王国です。

 この国は、14〜16世紀にメキシコ中央部を支配した連合王国。この王国が最初の悲劇を生みます。1519年2月、キューバ提督ベラスケスは、コルテス(1485〜1547年)に命じ、600人に兵隊、14問の大砲をつけてアステカ征服を命じます。その頃アステカでは、国王モクテスマ2世が「お前の破滅の時が来た」という女性の声を夜な夜な聴いたり、鏡に白人が殺しに来る風景を見たと言います。

 そしておそれは現実のものに。連合王国であるアステカでは、同盟国のトラスカルテカが独立を目指しており、コルテスと手を結びました。そして、同年11月にはあっさり王城であるテノチティトラン城に入城しました。これに対しモクテスマ2世は、コルテスを神の再来と勘違い(伝説に白い人間が・・・とあったんですね)。彼に父の宮殿を宿舎として提供しました。

 ところがコルテスは財宝が目当てです。アステカ兵がスペイン兵を傷つけたという口実で国王を捉え、財宝の在処を吐かせ略奪しました。ここまでは、アステカの内紛も絡んでいたから、まだ良いとしましょう。ところが、この後悲劇が起こります。

 コルテスの行為に対し、なんと提督ベラスケスが「おのれ、私を差し置き、勝手な行動するとは許さぬ」と、コルテス追討に動きます。コルテスは野戦に打って出て、夜襲で提督を捕らえ、勝利しました。そして、テノチティトラン城に帰還すると、恐るべき悲劇が。この時、テスカトリポカの大祭というのが行われていたのですが、この光景を見たスペイン人駐留部隊は「人が沢山集まってきた。まさか、反乱を起こすのか!」と勘違いし、大虐殺。一方のアステカ人も黙っておらずスペイン兵を王宮に閉じこめます。

 これはヤバイと、コルテスは国王モクテスマ2世に調停を依頼。ところが、その国王は無力で、民衆から石を投げつけられ死亡してしまいました。こうなれば完全な戦争です。コルテスは、再びトラスカルテカ族と協力し、1520年8月にこれを滅ぼしました。この時、アステカではスペイン兵がもたらした天然痘が流行しており、これも滅亡の要因となります。

 そして、コルテスはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)から、この地の総督に任じられました。コルテスは元々貧民層の出身。ずいぶん立身出世を果たしたものです。

○インカ帝国滅亡

 一方、完全にヨーロッパ人のエゴ&欲望丸出しなのが、ペルーで栄えたインカ帝国滅亡の話。これを滅亡させたのがフランシス・ピサロ(1476〜1541年)。パナマ海峡の南部に黄金の大国があると聞いた彼は、カルロス1世にインカ帝国攻略を要請し、これが認可されます。

 1531年、ピサロは皇帝アタワルパの所在を突き止めると、会見を申し入れ、カハマルカの広場で会うや否やこれを捕らえてしまいます。もちろん、皇帝アタワルパは多くの兵を連れてきており、一方のピサロは数名の従者がいるだけ。しかし、ピサロは浜辺に騎馬隊と大砲を隠しており、これに驚いたインカ兵は次々と殺害されました。

 ところが、肌の白いピサロ達に対して、なぜかインカの人達は神の再来と信じて抵抗しません。

 一方のピサロ。皇帝アタワルパが、皇位継承対立人物で牢屋に入れていた従兄弟のワスカルを処刑してくれと言うので(彼は、ピサロがワスカルを皇帝にすることを恐れた)、これを処刑すると、ありったけの金を要求。これを受け取ると、何とピサロはアタワルパを処刑しました。罪状は、スペインに対する反逆と、ワスカル処刑の罪。無茶苦茶です。そして、ワスカルの弟・マンコ2世を皇帝の座につけて統治しようとします。

 しかし、そうはうまく行かない。1535年に新首都リマを建設したピサロは、クスコの支配権を巡り同僚のアルマグロと対立。1538年に彼を処刑すると、その息子にピサロは殺されてしまいました。

 その後マンコ2世は、反乱を起こします。彼は従者に殺害されましたが、4人の息子とインカの人達は抵抗を続け、最後の皇帝トゥパク・アマルは1572年に捕らえられました。そして、スペイン人達は黄金を求め南アメリカ大陸中を駆け回ったと言います。この名前、現在ペルーの左派ゲリラで有名。日本大使館人質事件を覚えているでしょうか?


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