第34回 フェリペ2世とエリザベス女王

○今回の年表

1485年 バラ戦争終結。ヘンリ7世がテューダー朝を興す。
1492年 コロンブスが第1回探検で北米に到達。
1517年 ルターが95箇条の論題を出す。
1519〜22年 マゼラン一行が世界一周を果たす。ただし、マゼランは途中で死去。
1526年 (インド)ムガル帝国成立。
1534年 国王至上法(首長法)発布。イギリス国教会の成立。
1543年 ポルトガル人が日本に漂着し、火縄銃(種子島)を伝える。
1556年 スペインでフェリペ2世が即位(〜98年)。
1558年 イギリスでエリザベス女王即位(〜1603年)。
1568年 ネーデルランド(オランダ)が、スペインに対し独立戦争(〜1609年)。
1572年 ポーランドのヤゲウォ朝断絶。選挙王制に移行。フランスでサン=バルテルミの虐殺。
1580年 スペインがポルトガルを併合。
1582年 (日本)織田信長・信忠親子が明智光秀に討たれる(本能寺の変)。
1583年 (中国)女真族のヌルハチが挙兵。
1588年 スペインの無敵艦隊、ドレイク率いるイギリス海軍に敗北。
1589年 (フランス)ブルボン朝が成立。
1590年 (日本)豊臣秀吉が小田原の北条氏、東北の戦国大名を屈服させ天下統一。

○スケベ男の宗教改革?

 さて、お話しはイングランドへ。バラ戦争が終わった後のお話しです。
 当時のイングランド王国はブリテン島の南半分を支配する程度。北のスコットランドはもちろん、西のウェールズも半独立状態でした。つまり、イングランド王国は非常に小さな国で、それもあってヨーロッパ大陸における領土を失ったのは痛手でございました。

 そのため、バラ戦争後チューダー朝を開いたヘンリー7世(位 1485〜1509年)は、小国であるがゆえに、もっとその機動性を行かせるよう、国王に権力が集まり、命令を行き届きやすいように改革を進めます。例えば、貴族が私兵を持つことを法律で規制することに成功。また、第28回でみたように星室裁判所を設置し、普通の権限では手の出しづらい、有力貴族に対する裁判を執り行えるようにし、絶対王政の基礎を確立します。

 その後を継いだ次男のヘンリー8世(位 1509〜47年)はヨーロッパ大陸に領土があった頃の「古き良き時代」を夢み、神聖ローマ帝国などと手を組み神聖同盟に参加し、フランスと戦争します。さらに国内では様々なワガママぶりを発揮します。ヘンリ7世は諸方面に気の行き届いた政治をしましたが、8世は「俺が偉いんだ!」って、感じです。気に入らない人物はすぐ処刑。王家のために折角修道院から没収した土地も、国王の放蕩(無駄遣い)のために売り出す始末。特に、女性問題がひどい。彼は6度も結婚しますが、離婚すると処刑です。

 そしてこの離婚。
 当然、キリスト教(カトリック)の教義とは相容れるものではなく、それでも1度目の離婚は大目に見てもらったのですが満足出来ず、ついにカトリック教会と決別。1534年、首長法(国王至上法)を発布し、イギリス国王を首長とする、独自のイギリス国教会を発足させます。そして、修道院を廃止して広大な土地と財産を没収(もっとも前述のように売りに出され、新興地主が台頭する)。

 この時は、まだカトリック的なものでしたが次のエドワード6世(位 1547〜53年)の時にプロテスタント系の教義となり、一般祈祷書という基本方針を定めたものが出来上がります。もっとも次の女王メアリ1世(位 1553〜58年)は、旦那のスペイン王フェリペ2世と共にカトリックを復活。が、彼女が亡くなり、エリザベス1世(位 1558〜1603年)が即位すると、再び国教会制度に戻り、統一法の発布で決着を見ました。


ロンドン塔  11世紀、イングランドを支配したウィリアム征服王が、外敵から守るために建造させたもの。宮殿として使われましたが、後に監獄としても使われて多くの政治犯などが処刑されました。 ここで紹介したヘンリー8世は、2番目の妻アン・ブーリン王妃が、男の子の世継ぎを産めなかったことから、ロンドン塔に送って処刑にしてしまいます。

サマセット・ハウス  エドワード6世の時代に実権を握った、サマセット公エドワード・シーモア(1506頃〜52年)が自らの住まいとして、ロンドンに建てたもの。この規模、どれほどの権力を持っていたのかよくわかりますね。もっとも、やりすぎてしまったようで、政争に敗れた後に反逆罪で処刑されました・・・。  なお、冬には噴水の池がスケートリンクになり、このように多くの人でにぎわっています。

○イングランド絶対主義とエリザベス女王

 さて、イングランドでは官僚制や大学の整備はフランスなどよりも後進で、常備軍は整備されず、地方では地主階級のジェントリ(ジェントルマンの起源)に頼っていました。しかし、国教会の整備により精神的にイングランド国王を中心とする枠組みが出来上がり、またこの制度は議会が中心となって作られたところに強みを発揮します。

 そして、それを代表するのが女王・エリザベス1世(位1558〜1603年)です。
 先代のメアリ女王は、父ヘンリー8世のように強烈な人物で、多くの人物を処刑。新教徒の大弾圧も行われ、そしてエリザベスも一時は幽閉され、ロンドン塔で処刑される寸前だったそうです。そんな中での彼女の即位は国民大歓迎。そして、彼女も期待に応え、イングランドを強国にすることになります。

 まず、有能な政治家に目をつけます。それが、ウイリアム・セシルや、財政顧問となったトマス・グレシャム。こうした人物を使い、宗教の統一と政治の統制、重商主義の採用で敢えて独占権を付与することで工業を発達させ、また彼女の死ぬ3年前、つまり1600年には東インド会社を設立し、後のインド征服への下地を作ります。

 それから国内では、基幹産業となった羊毛工業に必要な土地の確保に伴う、囲い込み運動によりから閉め出され、浮浪していた農民の保護と弾圧。つまり、救貧法(1601年)で救いの手を差し伸べる一方で、狼藉を働く浮浪者には処罰をします。

 また、海賊行為の奨励。フランシス・ドレイク(1540頃〜96年)を使い、太陽の沈まぬ国と言われたフェリペ2世のスペイン船から略奪を行い、利益を得るという荒技もやってのけます。海賊ドレイクは、後に貴族の称号である「サー」をもらい、プリスマ市長や、国会議員にまでなります。ちなみに、彼は海が好きだったらしく、最後はまた、エリザベス女王の命令で航海に出て、船上で病没しています。


旧王立取引所  ロンドンに残る旧王立取引所。元々はシティの商人であるサー・トマス・グレシャムが1566年に資材を投じて取引所を作ったのが始まりで、1571年にエリザベス1世の勅許によって王立取引所となりました。現在の建物は、2代目の建物が1838年に焼失してから再建されたものです。

○スペイン・全盛からすぐ衰退

 さて、話はスペインに。
 カール5世(カルロス1世)の死後、ハプスブルク帝国は外交関係は緊密なものの、内政面ではオーストリア系とスペイン系で分裂。このスペイン王の座をついだのが、カルロス1世の息子フェリペ2世(位1556〜1598年)です。この男が、スペインの全盛を作り上げ、また衰退への路を作ってしまいました。

 全盛を作り上げた要因は、なんといっても銀。ポトシ銀山などで現地民を奴隷として働かせ、ほとんどタダ同然にヨーロッパに持ち込む。これにより物価はインフレ状態となりますが、ともあれスペインは大儲けです。また1571年、カルロス1世の宿敵、オスマン・トルコ海軍をレパントの戦いで撃破!!地中海をスペインのものとします。

 さらに、1580年にはポルトガルを併合。もちろん、御家芸の政略結婚。実はフェリペ2世の母親がポルトガル王女だったんです(〜1640年まで)。一方、彼自身はイギリスのメアリ1世と結婚しています。が、こちらはメアリ1世が早く死去してしまう。そのため、妹のエリザベス女王に求婚するという下心見え見えの作戦に出ますが、拒絶。

 また、イタリア領を継承していた彼は、フランスのイタリア侵攻をついに諦めさせ、これを確保することに成功しました(この時、互いに領土を割譲しています)。

○オランダ独立戦争

 しかし、1568年からはじまったオランダ独立戦争はスペイン斜陽の原因となりました。
 元々、このオランダと今のベルギー地域はネーデルラントという地名で、中部フランク王国、ついで北部がドイツ王国(のち神聖ローマ帝国)、南部がカペー朝フランス、さらにブルゴーニュ公国が南部、次いで北部も合わせて支配します。

 次いでブルゴーニュと姻戚関係になり、さらに継承の関係で神聖ローマ帝国のカール5世が全て引き継ぎ、さらに息子でスペイン王となったフェリペ2世の支配下に入ります。

 が、北部地域、すなわち今のオランダではカルヴァン派が大流行し、カトリックから離れます。
 これに対し、フェリペ2世は新教徒弾圧で対抗。特に、部下のアルバ公による圧政と異端審問。これが、独立を招く原因となり、1568年から、最終的には1600年頃までに渡り戦争状態となります。

 その間、オランダは日本に来航し江戸幕府と通商をしたことで、あまりにお馴染みですね。もちろん、日本だけではありません。反乱の最中ですが、東南アジア、インド、アフリカに商館を築き、交易をします。

 で、その反乱を指揮したのが、オラニエ公ウィレム1世。英語風に言えばウイリアムです。彼は北部を上手くまとめます。残念なら戦死しますが、1579年に北部諸州と南部のいくつかの州で、ユトレヒト同盟を結成し、81年にはスペインからの独立を宣言します。その後一時敗北を喫しますが、イギリスの支援もあり1600年、北部は完全に独立。

 その後、小競り合いが続き1648年、スペインとミュンスター条約を結んで、ここにネーデルランド連邦共和国が発足します。オラニエ公はその盟主的な地位となりました。なお、オランダと呼ばれるようになるのは南部がスペイン領ネーデルラントとして留まったため、区別の意味合いがあります。中心のホラント州に由来しています。この話の続きは、第40回にて。

○無敵なのに負けた艦隊

 もう一つ、スペインが決定的な打撃を被ったのが無敵艦隊の敗北、イングランドの海賊行為による損害、および制海権のぐらつき、さらに先のオランダを支援する行為に業を煮やしたフェリペ2世は、1588年にグラン・アマルダ(大艦隊)を派遣します。ところが、この「大」艦隊は、フランシス・ドレイク(1543年頃〜96年)、及びその従兄弟でジョン・ホーキンズ(1532〜95年)といった、女王お抱えの海賊率いる「小」さく、小回りのきくイングランド海軍にドーバー海峡で撃破されたのです。さらに、スペインには優秀な指揮官がいなかったことも災いしました。

ゴールデン・ハインド号  ロンドンで展示されている実物大レプリカ。1577年に建造され、フランシス・ドレイクの乗艦として活躍。1577年から1580年にかけて、大西洋→太平洋→モルッカ諸島→喜望峰のルートで世界一周を果たし、その途上でスペインの貨物船を襲撃する等、多額の金銀財宝を確保してエリザベス1世に献上。莫大な収入をイギリス国家にもたらしました。その人気はいまでも高く、イギリス各地で復元船が展示されています。

 これにより、スペインは国際社会で発言権を失い、イングランドは制海権を確保し勃興。

 さらにオランダ独立戦争などでの戦争費がかさんだスペインは、日が沈んでいくことになります。1598年、フェリペ2世は死去しました。ちなみに、フィリピンは彼の名にちなんだものです。しかしその植民地も、後に新興国家であるアメリカに奪われることになります・・・。

次のページ(フランス絶対王政の成立)へ
前のページ(ハプスブルク家)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif