37回 プロイセンの勃興とマリア・テレジア
○プロイセン?
さて、三十年戦争で疲弊した神聖ローマ・ハプスブルク帝国ですが、また新たな強敵が登場してきます。それが、北東ドイツにおいて新興勢力として名乗りを上げたプロイセンです。新興勢力と言っても、元々は13世紀にあったドイツ騎士団領の後裔です。 宗教改革後に公国となり、フランデンブルク選帝侯国と合併、というかホーエンツォレルン家に相続で併合されます。さらにスペイン継承戦争で神聖ローマに味方したことで、プロイセン王国となります。特に、1740年に即位したフリードリヒ2世(大王 位1740〜。彼が、この国を特に強大にしました。彼は、即位するや否やオーストリアのマリア・テレジアがハプスブルクの全領土継承の際、「ハプスブルクは女性が家督継承出来ないだろう!」と、異議を唱え、資源豊富なシレジア(シエジエン)地方を占領。もちろん、「異議」なんて口実。
そしてハプスブルクに対し、オーストリア継承戦争、七年戦争を仕掛けて勝ち抜き、プロイセンをヨーロッパの強国にします。この辺は後述します。そんな彼の政治姿勢が「君主は国家の第一の僕(しもべ)」。これは、彼の先生ヴォルテールの影響を受けたもので、啓蒙思想と呼ばれます。つまり、君主たるもの、国民を導かねばならない、と言う意味です。国民を守る絶対王政、と言ったところでしょうか。啓蒙というのは、学のある上の人が、学のない下の人に教えを説くという感じです。
フリードリヒ大王は信教の自由を認め、産業を育成。司法を改革し、福祉向上政策にも力を入れる。一方で彼が得意としたのは軍事。当時、将軍は外国人が任命されてることも多かったのですが、彼はすべて自国民に統一します。自国民に統一することで、自分の意志を伝えやすくするのです。
伝えやすくすれば、後は自分の意のまま。これに職業軍人として、徹底的に訓練を施し、国王直属の軍を編成します。その頃、他国では傭兵部隊が当たり前。しかし、傭兵部隊は独立性が強く、信頼出来ないのです。兵士も皇帝・国王のものではなく、傭兵隊長の私兵でした。だから、大王の着眼点は良い。
では、将軍達をどのように選抜し、鍛えるか。とすると、やはり教育機関が必要。ここに士官学校が登場。これは、1704年に先代の王、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が原型を作っています。この人物も軍事マニア。ちなみに、ヨーロッパで最初に出来たのは1616年。オランダのジーゲン公ヨハンが作ったもの。
それよりは随分遅いですが、イギリスでは1747年、フランスでは1776年に士官学校を作っているので、プロイセンはまさに機先を制したと言えるでしょう。こうして、プロイセンの将軍達は国王に絶対的な忠誠を誓い、何よりならず者ではなく、軍事知識豊富な人間達で構成されることになります。そして、プロイセンの騎馬隊は、1800メートルを一気に駆け抜ける。他の国は700メートルがせいぜいの時代です。
彼らの戦法はまさに電光石火。後のドイツ軍と同じです。そして、敵から見れば倒しても倒しても、次から次へと襲いかかってくる恐ろしい軍団となりました。
一方で、プロイセンの人口は少ない。兵隊をどうするかが問題でした。そこでなんと、他国から酒を飲ませたり、甘い言葉をかけたりして、半ば拉致して来るという荒技をやります。そして彼らを待っていたのは地獄の特訓。何と可哀想なことか・・・。ところが、同じ頃ドイツのヘッセン・カッセル伯フリードリヒ2世は商売として、領民をイギリスに売るという暴挙をやっています。これには、フリードリヒ大王も、「エゴだ」と痛罵しています。啓蒙君主は自国民を守るのが義務なのです。
これに倣い、他のドイツ諸侯も領民を売り飛ばします。売却先はアメリカ。この売られた領民達、ワシントン指揮下で、アメリカ独立戦争で使用され、約2万人中、1万人が戦死しています。
○芸術家・フリードリヒ大王
ところで、フリードリヒ大王は芸術・文芸家という側面も持っていました。特に、若い頃は芸術に没頭するあまり、親父に嫌われ(これは、親父さんが芸術が嫌いだったこともある)、大王は母の実家・イギリスに亡命しようとしますが発覚し、目の前で付き従った友人を惨殺されるという・・・。その後は、親父の下で真面目に働く一方、フランスの文芸家ヴォルテール(1694〜1778年)に師事。この人物は歴史から批評、哲学・文学・詩など何でも執筆し、後世に影響を与えた人物です。彼の影響でフリードリヒ大王は啓蒙君主を目指します。もっとも、ヴォルテールの理想はさらに高かったらしく、結局は大王と仲違いするんですけどね。
また、大王はフルートが大好き。自分で作曲もし、今でも演奏されることもあります。そして彼お抱えの音楽家が、あのJ.S.バッハ・・・の息子、エマニュエル・バッハです。バッハについては書きたいこともあるんですけど、このコーナーでは割愛します。