第37回 プロイセンの勃興とマリア・テレジア
○ドイツ女性の理想?マリア・テレジア
さて、今度はそのライバル、マリア・テレジアからこの時代を見ていきましょう。スペイン継承戦争で、スペインハプスブルク家の王位を夢みたカール6世。彼は、残念ながら息子がおらず、一人娘のマリア・テレジアしかいませんでした。ところが、ドイツのゲルマン法では女性に家督相続を認めていない。そのため、カール6世は法律を改正し、それまでの分割相続から長子単独相続にする、という名目で各諸侯や各国に「くれぐれも一人娘のことをお頼み申す」と、豊臣秀吉の晩年のごとくお願いします。
そして、カール6世が死去すると、マリア・テレジア(位 1740〜1780年)が即位。
しかし、当時彼女は23歳。
また、19歳の時にフランツ(後のフランツ1世)と結婚していて、既に3人の母という状態で、さらに、また一人懐妊中。当然、諸侯・各国はカール6世との約束など忘れ、この若き女帝をなめます。
そこで早速侵攻してきたのが、フリードリヒ大王。実は彼、親父に勘当されそうになった時にカール6世に助けてもらったことまであるのですが、そんなことは関係ない。まさに、マキャベリ路線を地でいっています。もっとも、彼は「反マキャベリ」という本も書いているんですけど。てなわけで、オーストリア継承戦争が勃発。
今回も国際戦争で、対立関係は次の通り。
バイエルン、フランス、スペイン、サルデーニャ、プロイセン、ザクセン VS オーストリア・イギリス・オランダ
その結果、1748年にアーヘンの和約が結ばれます。
マリア・テレジアは、シレジア地方とイタリアの一部領土を失ったものの、他の領土はすべて確保するという、まずまずの結果で戦争を終結させました。この時、実は神聖ローマ帝国皇帝の座がバイエルンのカール7世の手に移ったのですが、彼は3年で死去。結局、マリア・テレジアの夫フランツが継承しました。
これで一応権力基盤は安定します。
そこで目を付けたのが、失ったシレジア地方。人口100万以上であったので、そう簡単にプロイセンに手放すわけにはいかない。これを奪還すべく、彼女は、オーストリアの女王として改革に取り組みます。それも、抜本的な。
まず、役に立たない老臣達に代わって、様々なところから人材を登用する。
代表的なのが宰相に一躍抜擢されたカウニッツ伯爵。
伯爵はプロイセンとの厭戦気分が高まる中、こう言いました。
「イギリスは同盟国のふりをしながら何の役にも立たない。ならば、イギリスと敵対するフランスと手を組んだ方が良い。そしてフランスもプロイセンの台頭を恐れているのだから」
こうして神聖ローマ帝国(オーストリア)側からはカウニッツ伯爵の主導で、さらにフランス側からはルイ15世の愛妾ポンパドゥール公爵夫人の主導で、それまで不可能と言われた宿敵フランスとの同盟を結び、さらにロシアのエリザベート女帝とも同盟。プロイセン包囲網を形成し、フリードリヒ大王を震え上がらせました。
このフランスとの同盟に使われたのが、フランツ1世とマリア・テレジアの娘のうち11女の、マリー・アントワネット(1755〜93年)。のちのフランス皇帝ルイ16世に嫁ぎ、最後は革命によってギロチンの露に消えた女性です。幸い、マリア・テレジアは悲劇を見ることなく、この世を去りましたが、不穏な動きに最後まで心配していたと言われています。これについては、また次回以降で。
○七年戦争
こうして、フリードリヒ大王は包囲網を恐れていましたが、ついに現実のものに。マリア・テレジアも兵制改革を行い、陸軍養成所を設立。ここで、軍隊を鍛え、また勲章制度もつくり士気を高める。そして、1756年、ついに七年戦争が勃発しました。今回の各陣営顔ぶれは
プロイセン、イギリス、ハノーファー VS オーストリア、ザクセン、フランス、ロシア、スウェーデン、スペイン
まずは先手必勝!とフリードリヒ大王が戦いを仕掛け、彼は緒戦では勝利してきます。しかし、1757年にプラハ東方で行われたコリンの戦いで、レオポルト・フォン・ダウン(1705〜1766年)率いるオーストリア軍に敗北。
これ以後、プロイセンは劣勢となっていき、ついに1760年にはロシア軍に首都ベルリンを占領されてしまいます。プロイセンは、ついに滅亡に向かって風前の灯火。食糧補給もままならない。
勝った!、そうマリア・テレジアが思った時、なんとロシアのエリザベート女帝が死去。甥のピョートルが即位します。この人物、熱烈なフリードリヒ大王のファンでした。
当然、オーストリアとの同盟を切ります。あと少しというところで・・・ですが、これで厭戦気分が高まり戦争が終結。和平が結ばれ、シレジア地方はこれ以後、ハプスブルクのものとはなりませんでした。
とは言え特にコリンの戦いは、オーストリアとしては初めてプロイセンに勝った記念すべきもの。
ウィーン郊外の、ハプスブルク家の居城シェーンブルン宮殿に、マリア・テレジアはグロリエッテと呼ばれる美しい建築(上写真)を造らせました。これは、シェーンブルン宮殿の庭園を仕上げた建築家、ヨハン・フェルディナント・ヘッツェンドルフ・フォン・ホーエンベルクの傑作といわれるものです。
ところで、フランスとイギリスが話に出てきませんでしたが、7年戦争のときは何をやっていたのでしょう?
実は、この2国は北アメリカとインドを舞台に死闘を繰り広げていました。当時、この2国は世界各地域での植民地をかけて争う。アメリカは、イギリス首相ビット(息子と区別し大ビットと呼ばれる)の若手登用策が功を奏し、フランスを打ち破り勝利しました(フレンチ・インディアン戦争)。また、インドではイギリスの軍人クライブがプラッシーの戦いで打ち破り、勝利しています。
○改革色々
さて、ではマリア・テレジアは、その他にどのような改革を行ったのか。まず、なんと言っても女性の地位向上と風紀の徹底。及び、病院の設置。
当時、女性は子供を産む道具としか見られておらず、そのくせ子供を出産する時にでる血が汚らわしいとして、奥の小部屋に放置されることが多く、これが産褥熱となり死亡するケースが後を絶ちませんでした。そこで、きちんとした衛生環境の整った場所に収容するようにします。もちろん、女性だけではなく一般の病人も同様。きちんと病院に入れます。こうして、死亡率を激減させました。
また、教育制度に義務教育を導入。それまで、貴族の子弟は家庭教師に個人的についてお勉強、一般の人々の大半は文盲という状況でしたが、小学校を設立し基本となる部分を一律に学習させることにします。 さらに当時、一年の3分の1がお祭りや休日だったのを整理。さらに、カトリック信者でありながらも修道院の設置を禁止し、イエズス会を解散させることで勢力を弱めました。
それから、反抗心の強かったハンガリーに乗り込み、これに忠誠を誓わせます。当然、武力で押さえたのではなく対話によって従わせたのです。彼女は支配地とはいえ、実際には敵地に等しかったハンガリー議会に、単身で乗り込み、オーストリアの窮状を訴える。ハンガリーの貴族議員達も、そう言われては助けないわけにはいかない。解りました、資金と軍を提供しましょう、とこうなったわけです。対話は大切なことなんですね。これらはほんの一部らしく、オーストリアの基本の大半は彼女が作ったと言われています。
ちなみにもう一つ、マリア・テレジアといえば20年に16人もの子供を産んだことで有名。ほとんど懐妊しながら戦争や日々の激務をこなすという、まさに当時のドイツ女性の鏡とも言える存在でした。もちろん、子供は全員成人になったわけではありませんが、10人は生き残りました。注目すべきは、彼女は子供達を1カ所で育てたこと。そして、夫と共にみんなで演奏したり、家庭生活を楽しみました。
○第1次ポーランド分割
さて、七年戦争の2年後に、マリア・テレジアの夫フランツ1世が亡くなります。とにかく好人物だったらしく夫婦仲が非常によかったらしい。マリア・テレジアは非常に悲しみ、以後は喪服を着て活動したと言われています。そして、神聖ローマ帝国皇帝に息子ヨーゼフ2世(位1765〜1790年)を即位させ、オーストリアを共同統治することにしました。
自らの手で育てただけあって、とうぜん母子の仲と絆は固い。とはいえ、好き勝手にやらせてくれたフランツ1世と違って、ヨーゼフ2世にも考えがある。彼は、マリア・テレジアの大嫌いなフリードリヒ大王を手本に啓蒙君主を目指します。そんな大王から「ポーランドを一緒に分割しないか?」と誘われた時、国民へのポイントアップにもなると考え、カウニッツとも相談し、申出を受けることにしました。
これに対し、他人の国とはいえ勝手に奪ってよいものではない!とマリア・テレジアは反対。しかし、結局ポーランドはオーストリア・プロイセン、それからロシアによって分割されてしまうのです。これを、第1次ポーランド分割(1772年)と言って、この後も、第2次、第3次と分割が繰り返されます。
そして、マリア・テレジアは1780年にその生涯を終えました。63歳でした。最後まで、フランスのルイ16世に嫁いだ末娘マリー・アントアネットのことを心配して。
一方、ヨーゼフ2世は母がいなくなったことで、啓蒙君主として頑張ります。例えば、農奴を解放したり、プロテスタントとギリシア正教に信教の自由を認める、カトリックの権限をそぐ、それから次第に活発になっていたユダヤ人への差別を禁止、司法と行政を分離などなど・・・。
これらは、どれも非常に国家にとって有益なことで改革としては素晴らしい内容。ところがこの人物、マリア・テレジアが対話を通じ、じっくりと推し進めたものを早急に取り組んでしまう。その結果「反対!反対!」の大合唱に、さらにハンガリーに対しては、ドイツへの統合を求め、強い姿勢で臨む。結果、発布した案をすぐに撤回するなどゴタゴタを招き、政治が混乱。母の死後10年で、彼もまたこの世を去りました。
ちなみに、彼はモーツアルトを重用。当時オペラはイタリア語というのが定番でしたが、ヨーゼフ2世はドイツ人のためのオペラを!と彼に書かせるなど、何かとモーツアルトに目をかけます。しかし、モーツアルトは、サリエリを始めとする、他の宮廷音楽家のねたみを買う(モーツアルトの人柄も問題じゃなかったのかなぁ・・・)。そのためヨーゼフ2世が亡くなると、モーツアルトは後ろ盾を失い、追い出され、当時としては異例のパドロンのいない芸術家として短い生涯を終えました。
ちなみに、モーツアルトは貧乏で亡くなったといわれますが、どうも金遣いが荒かったのが貧乏の原因だとか・・・。ウィーンではあまり評判がよくありませんでしたが、他の地域では評判がよかったですしね。
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