第40回 名誉革命とオランダ

○今回の年表

1600年 ウイリアム・アダムス、日本の九州(臼杵)に漂着し、徳川家康と謁見。信任を得る。
1618年 三十年戦争(オーストリアVSスウェーデン・フランス・ザクセンなど)スタート。
1644年 ネーデルラント継承戦争勃発。
1644年 (中国)明が滅亡し、満州族の清が中国を統一する。
1648年 三十年戦争が終わり、最初の現代的国際条約であるウエストファリア条約が締結。
1652年 第1次英蘭戦争(〜54年)。
1658年 神聖ローマ帝国で、レオポルド1世が即位。
1660年 王政復古。イギリスでチャールズ2世即位。
1661年 (フランス)ルイ14世が、直々に政治を開始する。
1688年 イギリスで名誉革命が起こる。翌年、権利章典が発布される。
1772年 (日本)田沼意次、老中となる。
1776年 アメリカ独立宣言。
1793年 (フランス)ルイ16世が、革命政府にギロチンで処刑される。
1795年 フランスの侵攻。パタヴィア共和国の成立。
1799年 (フランス)ナポレオンが統領に(1804年より帝政)
1810年 オランダがフランスに併合される。

○交易で発展するオランダ

 時代は前に戻ります。 
 実を言いますと、オランダのウィレム3世がイギリスに招かれたのは偶然の話ではありません。ウィレム3世がイギリス国王に即位したのは、オランダの海外戦略上、必要な策略の結果だったのです。ここからは、オランダ側からの視点で歴史を見ていきます。
 
 まずオランダの略史ですが、第34回で見ましたけど復習しましょう。
 元々、この地域はネーデルラントという地名で、中部フランク王国、ついで北部がドイツ王国(のち神聖ローマ帝国)、南部がカペー朝フランス、さらにブルゴーニュ公国が南部、次いで北部も合わせて支配します。

 次いで姻戚関係になり、さらに継承の関係で神聖ローマ帝国のカール5世が全て引き継ぎ、さらに息子でスペイン王となったフェリペ2世の支配下に入ります。ところが、このフェリペ2世のプロテスタント弾圧政策に対し、オラニエ公ウィレム1世を中心とした独立闘争が開始されます(オランダ独立戦争)。

 そして、ネーデルラント連邦として1598年に独立し、スペインを追い出します(1648年には正式に独立が承認)。この時、プロテスタントの強かった北部は独立するのですが、南部はカトリックが強かったこともあり、同じカトリック国のスペインの支配下に留まります。そのため、区別するために、独立した北部はその中心であったホラント州の名によってオランダと呼ばれるようになるのです。そして南部は、後にベルギーとして独立しますが、これは当分先の話。



ライデンの城塞
 オランダの都市、ライデンに残る城塞。
 旧ライン川が新ライン川と合流する地点の高さ12mの丘に造られた円形の建物で、1568年にオラニエ公ウィレム1世を筆頭に、ネーデルラント諸州がスペインに対する独立戦争を起こした際、ライデンは1573年から1574年にスペイン軍に包囲されます。  市民はこの城塞に立てこもり、激しい攻撃と飢えに耐え続け、ついに1574年10月3日に、スペイン軍を水攻めにして退却させることに成功。ライデンの人たちにとって、ここは記念すべき勝利の場所であり、またオランダ独立に多大なる貢献があったことから、その報奨としてウィレム1世から、ライデン大学を誘致してもらうのでした。


ライデンの町並み
 そしてオランダは、イングランドの毛糸製品、ポーランドの小麦、さらには日本やアジアにも貿易の手を広げ、オランダの優れた技術で加工して輸出していきます。貿易の中心となった首都アムステルダムは大いに発展です。
 
 何でそんな優れた技術があったり、商売が上手かったかといいますと、それは当時ヨーロッパ各国から追い出されたユダヤ人、それからフランスから追い出されたユンカー達を積極的に受け入れ、さらに宗教も寛容だった、つまり何を信仰しても良かったからです。

 時代は少し戻りますが、1602年には議会の可決でオランダ東インド会社が設立されます。

 これは、1602年にオランダ連邦議会の決議で、過当競争を避けるために、アムステルダム,エンクハイゼン,ホールン,ロッテルダム,デルフト,ミッデルブルフの6か所に散在していた会社を統合して誕生した、植民地経営を目的にした世界初の株式会社。
 正式には連合東インド会社といい、商業活動以外にも、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権が与えられた国家規模の権力を持つ組織でした。オランダ語では、Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOCと表記します。



オランダ東インド会社本社
 オランダ東インド会社の本社だった建物はアムステルダムに現存。1606年の建築で、ヘンドリック・デ・ケイゼルの設計です。


帆船アムステルダム号
 18世紀にオランダ東インド会社で使用されたものを復元したもの。当時は、こんな帆船を使って大航海をしていたんですね。
 さて、東インド会社によってオランダは対外進出を果たします。

 1619年には、今のインドネシアの首都、ジャカルタにパタヴィアと言う植民地を築き、オランダ東インド会社の本拠に。そして、周辺に貿易や植民地の手を広げます(なお、イギリスの東インド会社は1600年にエリザベス1世から特許状が与えられて活動開始、株式会社化は1657年です)。

 そしてオランダは、いわゆる鎖国の日本とも貿易を存続させることにも成功しますし、ポルトガルの東インドにおける植民地の奪取、マレー半島からイギリスを追い出します。また、1621年には西インド会社も設立され、西インド諸島、ブラジル、北アメリカに植民地を造っていき、さらに1652年には今の南アフリカ共和国の喜望峰にケープ植民地の建設(ヨーロッパ最初の南アフリカ植民地)とまあ、大繁栄に意気揚々状態です。



アムステルダムの町並み

アムステルダムの町並み

○イギリスとフランスとオランダと

 これを苦々しく思ったのがイギリスでした。
 そこでクロムウェルは航海法(当時は条例)を発布し、イギリス本国と植民地の港にオランダ船が入港出来ないようにします。そして、王政復古してきたチャールズ2世はフランスを誘います。当時のフランス国王はルイ14世。チャールズ2世の従兄弟でもあり、しかも互いに新興国家オランダに敵意向きだし。

 そこで、オランダを巡って以下のように争いが起こります。このあたりの事情を、常連の相良義陽さんがうまくまとめてくださったので、これを元に紹介しましょう。
 
 まず、イギリスとオランダの間で英蘭戦争というのが起こります。これは3次に分類されます。
 第一次(1652〜54年)
  航海条例の結果行われたもの。イギリスが勝ち、航海条例の承認とアンボイナ虐殺事件の賠償金を得ます。この安保否虐殺事件というのは、1623年にフィリピンの南にある香料諸島でオランダとイギリスとが 武力衝突を起こしたもの。虐殺といってもイギリス人10人と、その下で働いていた日本人傭兵(!)9人が殺されたのであって、10万人が虐殺されたような事件ではありませんが、これによって極東の貿易がオランダ主導になり、イギリスは日本の平戸においてあった商館から撤退しています。

 第二次(1665〜67年)は痛み分け。イギリスはニューアムステルダムを得たが東インドでの権利を放棄。
 第三次(1672〜74年)はオランダ戦争と連動します。オランダ戦争というのは、オランダに煮え湯を飲まされた英仏が1670年に秘密裏に手を結び行った戦争。フランスは一時アムステルダムに迫ったが、オラニエ公ウィレムの活躍(堤防を切って国土を水浸しにしたらしい……)などもあって苦戦。

 しかもこれに協力していたイギリスは1674年にさっさと単独講和。そしてウィレムはこれまでもたびたびフランスと対立してきたオーストリアとスペインを味方に付けたので、フランスは完全に孤立しました。1678年、フランスはスペイン領ネーデルランドのごく一部とフランシュ・コンテを得て講和します。
 ちなみに、一時的に仲良くなったイギリスとフランスでしたが、このオランダ戦争を通じて、ルイ14世が頻繁に領土拡張を狙っているのに注意しなければならない、という気運が高まります。この結果イギリスとオランダで王室の婚姻が結ばれます。この婚姻がのちに、名誉革命に繋がり、そしてルイ14世の対外戦争は常に植民地におけるイギリスとの戦争を伴うようになるのでした(俗に言う、英仏第二次百年戦争の幕開け)。

○イギリスと手を組むべし!

 このイギリスとオランダの講和ですが、もう1つ理由があります。つまりオランダはイギリスと講和したものの、相変わらずフランスとイギリスに睨まれている状況には変わりはなく、自由に貿易が出来ない。ところが、こんな情報がスパイから飛び込んでくる。すなわち、「次のイギリス国王ジェームズ2世は、フランスの影響でカトリックが大好き。これをみんなに強制したい。イギリス議会はそんなことを許すわけにはいけない、他の国王を迎えねば、と画策中・・。」

 そこで、オランダは「うちの大将をイギリスに送り込めたら、貿易で対立することもなくなる・・・」。都合のいいことに、先ほど見たようにイギリス王室とオランダ総督は婚姻関係。すなわち、ウィレム3世の妻はイギリス王室のメアリ。そこで、利害が一致。オランダは、ウィレム3世をイギリス国王として送り込むことに成功したのです。ちなみにオランダ総督との「兼任」です。

 とは言ったものの、大多数のイギリス人にとってはいきなりオランダ軍が侵攻してきたように見えたらしい。で、あるからして、昔のノルマンディー公ウィリアムの征服ならぬ、オレンジ公ウィリアムの征服のように感じたらしいんです。

 もちろん、先ほど見たようにジェームズ2世もおめおめとは引き下がれない。
 彼はルイ14世率いるフランスの支援と、独立をもくろむアイルランドの支援でイギリスに侵攻してきます。が、これはウィリアム3世率いるオランダ軍に敗北。こうして、ウィリアム3世の支配が決定的となります。

 以後、基本的にオランダは東アジア方面、イギリスはアメリカ大陸方面・インド方面で貿易に従事。
 いわば棲み分けをすることになります。

○オランダの受難?

 しかしオランダは、イギリスとフランスの強大な勢力の前に次第に影が薄くなり、衰退していきます。
 おまけに国内では18世紀末からオラニエ家を擁するグループVS民主的化を求めるグループで対立。一応、前者が勝利を収めますが、1795年、フランスがオランダに侵攻し、共和制のフランスに倣ったパタヴィア共和国が成立。また、オランダ東会社は解散します。



アムステルダムの王宮
 そして、ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、その弟のルイ・ボナパルトを国王に送り込み、ホラント王国を発足させます。上写真の建物は元々は市庁舎として建てられていたものですが、この時に王宮になります。
 もっとも、ルイ・ボナパルトはナポレオンの命令をしばしば拒否し、オランダ人の利益を追求したため、ナポレオンは1810年に彼を強制的に退位させ、オランダはフランスに併合されました。ナポレオン失脚後にオランダは独立を取り戻し、1814年にウィレム1世(オランダ連邦共和国の最後の総督 オラニエ公ウィレム5世の息子)を国王とするオランダ王国が発足し、現在に至ります。(ちなみに当初はベルギーも支配していましたが、反乱により1830年に独立)

 ちなみに、上写真の王宮は現在のオランダ王室が使用する3つの王宮の1つですが、国賓などの重要なゲストを招く迎賓館として使われています。



ウィレム1世

○日本とオランダ

 オランダはまた、世界の情報の中心でもありました。イギリスも、オランダの情報を元に対外活動をしていたと言われていますし、また、日本にもかなりの情報が伝わっていたそうです。ご存じとは思いますが、日本は当時鎖国と言われている状態。が、実際は鎖国ではなく、かなり正確なヨーロッパ情勢が伝わっています。

 例えば、イギリス国王となったウィリアム3世は、落馬で死亡したのですが、これもすぐにオランダを通じて江戸幕府に伝えられているんです。他にもスペイン継承戦争についても事細かく事情をつかんでいました。



ウィレム2世  また、こちらは第2代オランダ国王、ウィレム2世(1792〜1849年 在位:1840〜49年)。僅か9年の在位ですが、江戸幕府に対し、アヘン戦争後の1844年に、開国を勧告する内容の国書を送付しますが、拒否されています。ちなみに、当時の将軍は徳川家慶。

 このように、江戸幕府はお勉強はするんですけど、これを一般に公開してはいない。しかも研究もしない。それで、黒船来航にビックリ!それが、鎖国の真相らしいです。

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