第41回 ポーランドから見たヨーロッパ

○選挙王制の国

 今回は、珍しくポーランドの歴史を見ていきます。

 ポーランドは第24回で見た通り、1386年にポーランド女王ヤドビガはリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名・ヤゲェウォ)と結婚から、ヤゲウォ朝が始まります。しかし、この国は王権が強くなく、事実上貴族達が支配していました。これに対し、国王ジギスムント1世(位1506〜48年)は常備軍と、それに伴う新しい税を導入しようとしますが、貴族達に強く拒絶され、失敗しています。

 そのヤゲウォ朝も1572年に断絶。そのため、貴族達はセイムという貴族議員が国王を選ぶ選挙王制に移行することに決定しました。そこで国王に招かれたのはフランスのヴァロワ朝国王の弟アンリ。ポーランドではヘンリクと呼びます。彼に対し貴族達は「我々のこれまでの特権と旧来の政治体制の堅持を認めろ」と要求し、承認されます。さらには、議会を2年に1度6週間、必ず開くこと、信仰の自由(カトリックとか)、どころか国王に忠誠を拒否する権利、国王世襲の禁止などまで認めさせます。要は、国王は象徴であることを定めたのです。

 と、その2年後のある日。ヘンリク国王は突然失踪します。そして、なんとフランスで発見。何を隠そう、当時はユグノー戦争の末期。兄の国王シャルル9世が死去したため、密かに後を継ぎに戻ったのです。が、1589年。彼は暗殺されてしまいました。ヴァロワ朝最後のフランス国王として暗殺されるか、ポーランドで貴族のいいなりになって天寿を全うするか、彼にとってはどっちが幸せだったでしょうか。

 ちなみに、ポーランドでは本当に宗教が寛容でした。が、結局はイエズス会系のカトリックに落ち着きました。

○貴族と農民

 ポーランドでは貴族が強いと申しますが、何と人口の10%が貴族だったのです。ちなみに他の国では2%ぐらい。多くても1桁は超えなかったとか。そんな貴族達を支えるハメになったのは、当然農民達。

 この時代、西ヨーロッパには南アメリカから大量に輸出された銀、こいつによって価格革命=インフレで物価の価格が上昇していました。そこで、オランダの商人達は「ポーランドの穀物を安く仕入れて、西ヨーロッパで売れば差額分大儲け!」と考え、ポーランドの貴族もいい儲けになるもんだから、どんどん輸出しちゃう。当然、こき使われるのは農民。ほとんど土地に縛り付けられ、奴隷のごとくこき使われました。

 そんなわけで、ポーランドは小麦などの穀物を輸出する農業国になり、反面都市は発達せず。貴族達の各領地の下に集落が形勢程度の物。中央集権が進んでいないから、核となる都市が出来なかったのも原因の1つ。また、手工業を営む人達は貴族の保護下に入ります。

 ところが、輸出も1640年から停滞。やはりアメリカ大陸からヨーロッパにジャガイモとトウモロコシが伝わってくるんです。これは北欧と南欧で生産。なら、ポーランドの小麦を買わずに、もっといい代用品が見つかった、と西ヨーロッパの人々は飛びついたわけです。このため、ポーランドの国力は大いに低下しました。

○プロイセンの独立

 そして1648年、ウクライナ地方を支配するコサック達がポーランドに対して反乱を起こします。何故かというと、この地にどんどんポーランド貴族が進出し、土地を収奪していく。コサック達はポーランドの防衛を担っていたのですが、「ならせめて俸禄と特権の向上を!」と求めたところ、拒絶。これに農民の反乱も結びつき戦争開始!

 1654年、コサック達はロシアに寝返ることを決定。同じ正教会を信仰していることも提携をするきっかけに。1655年、ロシアはリトアニア地域の首都ヴィルノを占領します。さらに同年、スウェーデン王国も介入してきます。これに対しポーランド貴族はあっさりと降伏し、スウェーデン軍が進駐。そして、略奪の限りを尽くします。彼らは、民衆の怒りを買い撤退。が、ポーランドではペストがはやり、人口の4分の1が死にました。

 こんな状況を前に、独立を果たしたのがプロイセン公国。ここは、元々ドイツ騎士団領でしたが、ポーランドに負けて、保護下にありました。と、いっても当時の領主はドイツのブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1618年に相続した)。彼は、半分足をポーランドにつっこまれている状況を合法的に解消したい。そこでこの戦争に乗じ、最初はスウェーデン側につき、スウェーデンの旗色が悪くなるとポーランド側に寝返る。

 当然、戦争が終結すると、フリードリヒ・ヴィルヘルムはご褒美としてポーランドからプロイセン独立を獲得。こうして、2国は合同し、後にオーストリアと戦い、そしてドイツ帝国を築く、その原点となりました。

○そして・・・

 で、ここからは以前見た通り。一時、オスマン帝国に包囲されたウィーンを救援するという輝かしい戦果も挙げましたが、結局のところ衰退著しいポーランドは1700年の北方戦争でさらに荒廃。第1次ポーランド分割が行われ、そして、国王が近代改革を行おうとしたところを、ロシアに見つかり、完全にプロイセンとロシアに分割されてしまうのです。

 ポーランド愛国者達は何度も反乱を試みますが敗北。独立を回復するのは、第1次世界大戦後。きっかけとなったのは戦中の1917年3月、革命でロシア帝国が崩壊したこと。よって終戦後の1918年、アメリカ合衆国のウィルソン大統領が1「14カ条」でポーランドの独立を支持。同年11月、ようやく独立を果たします。

 ですが、その後もヒトラー率いるドイツの占領、事実上のソビエトの統治など暗黒時代は続きます。

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