第42回 ロックとかルソーとか、結局何を言った人?

○違いをちゃんと押さえておきましょう

 今回は多くの人がお好きであろう、政治的な動きとか、戦史ではなく思想の話。誰もが一度は勉強させられて、誰が何を言ったのかで混乱したであろう、ホッブズ、ロック、ルソー、モンテスキュー。彼らの思想と、生涯について御紹介しましょう。勉強したことある人は懐かしさに浸りつつ、新しい発見を。中学生や高校生は、教科書では詳しく教えてくれないけどテストには出る、この人達について楽しく勉強して頂ければと思います。ちなみに、公務員試験でもよく出ます。

 ルソーの生涯は必見(笑)。

○ホッブズ編

 まずはホッブズ(1588〜1679年)。イギリス人。
 「リヴァイアサン」という著書が、印象に残っている人も多いはず。ゲームにもこの名前登場しますしね。しかし、そんなことではいかん。彼は一体何を言った人なのか。まとめてみるとこんな感じです。

 1.人間は国家を作れ!
 ホッブズ氏は、人間てのは利己的で、自分の自然権(自己の生命を維持し、発展させていく権利)を勝手に主張し合う生物だと考えます。つまり、俺のものは俺のもの、お前のものはお前のものだと言って争うんですね(違うか?)。そして、まだ何の法律とか、決まり事のない自然状態は、お互いに滅ぼし合う戦争状態になる、「万人の万人に対する闘争(人は人に対して狼)」が起こると考えました。そこでホッブズは、これを回避し、みんなで生きていくためには国家を作る必要があるんだ、こう主張しました。

 2.社会契約、つまり自然権の譲渡をしよう
 しかしただ国家を作るだけではダメです。どんな国家を作るか。ホッブズは「社会契約」をして国家を作る必要があると考えます。社会契約とはどんな契約か。それは、みんなが自分の自然権を主張するのではなく、それをみんなで一斉に国家に譲り渡し(自然権の放棄)、国家の言うことを聞くようにしようというものです。そうすれば平和は保たれる。

 ですが言うことを聞くと言っても、誰も弱い国家の言うことなんか聞きません。そこで国家は、主権という、絶対に不可分、不可侵な権力を持つべきだ、としました。そして、この絶対的主権を持った国家を、旧約聖書ヨブ記にでてくる怪獣にたとえ「リヴァイアサン」と呼んだのです。そして彼は、強大な王権を持つ絶対王政がもっともふさわしいと考えました。

 ▽ホッブズはどんな生涯をおくったのか。
 彼は、エリザベス女王の治世の元に生まれました。イギリス国教会の貧しい牧師の息子で、非常に優秀な才能を持ち、オックスフォード大学を卒業し、デボンジャー伯の家庭教師、有名な哲学者であるベーコンの秘書を務めます。生涯独身で、また官僚にはなりませんでした。そしてデカルトガリレイと親交を持ち、ここから科学的なものの見方を摂取。

 一方、「王権神授説」ではなく、「国家主権」を唱えたため著書「リヴァイアサン」は「無神論者」と批判され発禁処分に。特に宗教界や王党派から批判されまくりで、またピューリタン革命にともないフランス亡命。そこで、やはりフランスに亡命していた皇太子チャールズの家庭教師をし、のちに王政復古で国王チャールズ2世となった彼からは厚遇されます。そして著作活動をしながら、92歳という天寿を全うしています。

○ロック編

 お次はロック(1632〜1704年)。この人もイギリス人です。
 彼は自然状態=平和状態であると考えます。ま〜人それぞれ考えかた様々で、思想ばかり勉強していると半ば呆れちゃうこともありますけど、彼は「人間は理性的だから、自然状態の中でも他人の生命・財産を侵害しない」と、考えたわけです。

 ただし、完全な楽観主義なんかではありません。
 時には人々は非理性的に争うこともある。特に、解釈の違いで争う事ってありますよね。そこで、この解釈をどこかで一元化してもらいたい、つまり各人の自然権をより保障するためにはどうしたらいいか、うむ、人々の社会契約が必要だ、と考えます。そこで、やはり彼も社会契約で国家に権力を・・・となるのですが、その発想はホッブズとかなり異なります。まとめると、こうなります。
 1.各人が契約によって共同社会を形成。
 2.共同社会が統治機関を設立して、権力を信託する。これが国家の成立。
 3.しかし国家の暴走を防がないと行けない。そこで国家を、法律を作る立法機関(立法権)と、法に基づいて政治を行い、外交を行う執行機関(執行権)にわけて牽制。
 4.もし私たちが信託した国家が、信託目的に違反するようであれば政府交代。抵抗権革命権という概念(考え方)で、これはアメリカ独立戦争に大きな影響を与えます。また、制限つきながら選挙制を提唱するなど、自由主義の父と言われます。

 ▽ロックはどんな生涯を送ったのか
 ロックは新興中産階級のピューリタン教徒の家に生まれました。当時は、ピューリタン革命の真っ最中。国王を追い出せ〜とクロムウェルが立ち上がっていた頃です。ロックもホッブズと同じくオックスフォード大学を卒業し、哲学・医学・宗教を修学。そして、のちにホイッグ党党首となるアシュリー伯(シャフツベリー伯)と親しくなったことから侍医・顧問の立場で政治の世界に。そのため伯爵が失脚するとオランダに亡命し、名誉革命の翌年に帰国。そして革命を理論化した代表作「市民政府二論(統治論)」で名声を得ました。

 万有引力の法則でお馴染み、ニュートンとも親しくなり、そして読書と詩作の日々を送って生涯を終えました。
 へえ、・・・医者だったんだこの人!
 なお、哲学の世界では「タブラ・ラサ=心は白紙(空白の看板)である」などという考えを提唱し重要な地位を占めていますが、長くなるので流石にここでは割愛。

○ルソー編

 ルソー(1712〜78年)、この人はフランス人。
 この人は、「社会契約論」を唱え、一般意志に従う直接選挙の理想を唱えました。どういう事かというと、文明は人々に不平等と戦争を与えてしまった。だから人間は、自由・平等・平和な状態である「自然に帰れ」。そして、新たに社会契約をし、個人の一切の権利を共同体に譲渡し、共同体は人間の良心である一般意志に従い、各人の生命と自由を目的とする。というもの。

 ▽ルソーはどんな生涯を送ったのか
 この人、かなり変わった生涯を送っています。
 フランス人と書きましたが、元々はスイスのジュネーブで時計師の子として生まれました。そして9歳で母を失い、父は決闘事件で家出(!)。10歳の時に兄も家出(!!)。そのため、13歳でルソーは彫金工の徒弟となり、そして孤独で、窃盗や嘘をつく日々を送ります。そして16歳で放浪の旅に。ここで、南フランスのシャンベリーにお住まいのヴァラン夫人に保護され、彼女の愛人となりました。

 そして、哲学と歴史を独学で勉強し、さらに歌劇(オペラ)の作曲もする。
 28歳でヴァラン夫人と別れ、リヨンで社交界デビュー。そしてパリで百科全書派と呼ばれる、その名の通り(人々の啓蒙のため)百科全書(辞典)全35巻を作る人々と出会い、音楽の項を執筆します。このグループには、中心人物であるディドロ、それからヴォルテール(文学者。宗教的社会的迷信から解放され、自由で自然に志向するのが理想的人間だ!と考えた人)や、次に紹介するモンテスキューがいます。

 1752年に、彼のオペラ「村の占い師」が初演。この曲で有名なのが、日本語の歌詞で言う
 「む〜す〜ん〜で、ひ〜ら〜い〜て」とい一節。
 むしろこっちで我々とはなじみがあるんですね。と、このようにご活躍だったのですが、文明なんて人々を堕落させるだけだと主張したため、ヴォルテールと対立。それもあってパリを離れ、モンモランシーに隠棲し、小説「エミール」(子供の教育には感情表現を重視せよというもの)、そして有名な「社会契約論」を執筆。

 その後は、色々な友達とケンカし、さらに著書の1つ「エミール」が禁書となり警察にも追われ、1762年にはロシア、ついでイギリスと逃亡。1768年に、ルノーという変名を使ってフランスに帰国し、自伝「告白録」という激しい道徳的葛藤で有名な作品を執筆。1778年にエルムノンビルで死去しました。

 ちなみにパリで下宿中(33歳の時)に、女中のテレーゼを愛人に。10年間で5人の子供を孤児院に捨て、なんと56歳でようやくテレーゼと結婚という、なんとまあ凄い生活・・・。そしてルソー、晩年は楽譜筆写で生活しました。

○モンテスキュー編

 面白かったですね、ルソー(笑)。
 最後にモンテスキュー(1689〜1755年)です。
 この人は「法の精神」という著書で、立憲君主制と三権分立を提唱しました。ロックの二権分立と違って、三権なんですね。三権とは、立法権、行政(執行)権、司法権。3つに分けることで、やはり相互牽制。暴走をしないように考えついたもの。これはアメリカ合衆国憲法やフランス人権宣言に取り入れられ実現しています。

 その割に紹介すべき事はこの程度なのですが。
 あ、そうそう。この三権分立論はイギリスの政治をモデルにし、モンテスキューはイギリスの政治を絶賛。
 ただし、イギリスでは議会が中心の政治体制だっため、ちょいとモンテスキューはイギリスの体制を事実誤認していたと言われています。

 ▽モンテスキューはどんな生涯を送ったのか
 ボルドーに近い男爵領ラ・ブレードのスゴンダ家の館の生まれ。歴史や古典を学んだ後、ボルドー大学とパリ大学で法律を学び、なんと1714年にボルドー高等法院の副院長となり、16〜26年には院長を務めました。  彼は、1721年に発表した書簡体小説「ペルシャ人の手紙」(ヨーロッパ旅行中の2人のペルシャ人貴族が見聞を故国に書きおくるという趣向で、フランスの政治や社会状況、宗教問題、文学を風刺したもの)で有名に。ブルボン朝の支配の批判に大きな影響を与え、後のフランス革命に影響を与えることになります。

 1734年に「ローマ人盛衰原因論」、1748年に「法の精神」を出版し、共和制・君主制・独裁君主制を比較し、気候・地理など全般的な状況&政体には関連があることを明らかにしました。そして前述したように政府の権力は3つに分けて相互牽制すべしと訴えました。

 うむ、ルソーと比べると何と面白くない(?)生涯でありますこと。

次のページ(産業革命)へ
前のページ(ポーランドから見たヨーロッパ)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif