44回 アメリカ独立戦争
○大陸会議の招集
そこでアメリカ側は、1774年9月に第1回大陸会議を開きます。これは何かと申しますと、ジョージア以外の12の植民地から、各植民地議会より選出された50人の代議員が集まった会議です(議長はバージニアのペイトン・ファンドルフ)。そして、第1回に於いてはイギリス国王ジョージ3世にイギリスとの和解の助力を要請する「権利の宣言」という陳情書を送ることにします。
一方、陳情書が認められない場合に備えて、イギリス製品のボイコットなどをすすめる大陸同盟の結成も決議します。
結局、陳情書は認められず、この大陸会議がそのまま、今のアメリカ政府に発展していくことになります。
○開戦とワシントンの登場
そして1775年4月19日。
ボストン北西郊外のレキシントンで、イギリス軍とアメリカ植民地の民兵による武力衝突が起こり、全面的な戦争に突入していきます(レキシントン・コンコードの戦い)。一方、第2回の大陸会議も招集され、この時に代議員として登場したのがジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズといった、アメリカをリードしていくことになる人々です。
そしてまだこの段階では、イギリスとの和解を願う声が多かったのですが、イギリスの強硬姿勢は崩される気配もなく、大陸会議に於いてワシントンを最高司令官に大陸軍を組織することが決定。また、紙幣の発行や諸外国との交渉などが行われていきます。もっとも、この段階ではまだアメリカ独立・・・までの機運は熟していませんでした。
ちなみに、独立戦争を指揮することになるワシントンは、ヴァージニアの地主です。フレンチ=インディアン戦争に従軍していたときにフランスの要塞を攻略していた実績から、独立戦争の総司令官に抜擢され、武器弾薬も少なく、素人同然だったアメリカの民兵達を良く指揮し、絶大な支持を得ていきます。ちなみに、独立戦争が勃発したとき、彼は43歳です。
○ついに独立宣言
しかし、1776年1月。トマス=ペインが発行する「コモン=センス」・・・直訳すれば「常識」という冊子で「イギリスから独立するべきである!」と論文が掲載されると、これが3ヶ月で12万部も売れるという大ヒット御礼。当時の12万部ですからね、凄いことですよ。ここに保守派もついに折れ、大陸会議は独立に向けて動き出すことに方向性を決めました。ちなみに、ちょっと対立の構図を見ていきましょう。
まず、アメリカ独立を支持するグループ。
・愛国派と呼ばれる人々
保守派・・・富裕商人、大農園主、弁護士
急進派・・・都市商工業者、進歩的農園主、自営農民
・イギリス&諸外国のうち
イギリス野党ホイッグ党
フランス、スペイン、オランダ
次に、アメリカ独立を否定するグループ
・アメリカにおける王党派・・・国教会聖職者、高級官僚、大地主、大商人
・イギリス本国政府&与党トーリー党
中立派の諸国
・ロシア、プロイセン、デンマーク、スウェーデン、ポルトガル
とまあ、こんな構図でした。
そして、1776年7月2日に大陸会議はアメリカの独立を決定。さらに7月4日、フィラデルフィアで、トマス=ジェファソンらが起草した独立宣言(大陸会議における13のアメリカ連合諸州による全会一致の宣言)が採択されました。
これには
1.人間には絶対に譲れない基本的人権=人としての権利があり、圧政には革命をする権利がある
(思想家ロックの影響)
2.イギリス王の暴政はこれだけあるぞ
3.13植民地が独立するのは正当なことだ
と、いった内容が書かれており、のちにフランス人権宣言に影響を与え、近代民主主義の基本原理へと発展していきます。その意味では、今の日本にだって大きな影響を与えていることになりますね。
そして翌年には、現在の国旗にも通じる星条旗を制定。
当時は13の星と13の赤白ラインで、州が増えるごとに国旗も変化していったのは有名な話ですね。
一方戦局ですが、最初は正規の訓練を受けているイギリス軍に苦戦したアメリカ軍でしたが、1777年1月にワシントンがトレントンを奇襲して勝利を収め、さらに同年10月のサラトガの戦いでイギリス軍を包囲し、降伏させることに成功します。
さらに1778年12月、フランスとアメリカで米仏同盟条約が調印。
これはアメリカにとって大きな追い風です。そして、1781年9月にはヨークタウンの戦いでイギリス軍を撃ち破り、これによって戦いはほぼアメリカ軍の勝利が確定します。また、13の植民地は連合規約を結び13植民地は州(邦)として中央政府を樹立し、アメリカ連邦を形成することを決定します。
そして、1783年。
アメリカとイギリスの間でパリ条約が結ばれ13の植民地の独立と、ミシシッピ川以東の割譲が認められました。
イギリスはさらに、ヴェルサイユ条約でフロリダとミノルカ島をスペインへ、セネガルをフランスへ割譲する羽目になります。もっとも、ラテンアメリカ諸地域自体が独立に向けて動き出していくことになるのですが・・・。
○アメリカ合衆国憲法制定
こうして見事、独立を勝ち取ったアメリカ側でしたが問題が残っていました。当時の中央政府である連合会議=アメリカ連邦は、13の旧植民地に対して弱く、徴税権や徴兵権がなく、その他内政面でも様々な制約を抱えていました。例えば、議会を通過した法案は、改めて13州のうち9州の承認が必要という、なかなか手間のかかるシステムだったのです。
でつまり、アメリカ連邦を緩やかな連合体にするのか、それともある程度まとまるのか・・・。散々議論された結果、やはり、ある程度強い中央政府が必要だ、と言うことになります。
その結果1787年、ジェームズ・マディソンらによって起草されたアメリカ合衆国憲法が制定され、ここに於いて正式にアメリカ合衆国がスタート。注目すべきは統治機構で、行政、立法、司法が相互に牽制しあう三権分立システムが採用されました。そして、アメリカ合衆国は大統領制を採ることにします。国王ではなく、選挙で自分たちのトップを選ぶのですから、これは非常に画期的なことです。
さて、その初代大統領を誰にしよう・・・と考えたところ、先ほどの戦争で大活躍をしておきながら、戦争が終わると隠居していた人物がいます。そう、ジョージ=ワシントンです。こうして、ワシントンが初代大統領に選出されました(1789年)。アメリカの政治の仕組みについては雑学万歳 85回で紹介していますので、そちらを参照にしてください。現在に至るまで大きくは変わっていません。
ちなみに当時の首都はニューヨーク。
もっとも、1783年の時点で正式な首都は別に定めることが決定しており、1790年に現在のワシントンに首都を建設することが決定。具体的な場所を決めたのはワシントン大統領で、1800年に合衆国政府は移転。当初はフェデラル・シティ・・・つまり、連邦市と呼ばれますが、のちに議会によって「初代大統領の名前にしてしまおう!」と決まり、都市名がワシントンとなったのです。
○フェデラリストとリパブリカン
こうして船出したアメリカ合衆国でしたが、問題はまだありました。まず、憲法には信教の自由や言論出版の自由が明記していなかったため反発があり、1791年に憲法が修正されて、これらの権利が追加されました。
それから、相変わらず中央集権体制でいくのか、各州がそれぞれ独自性を強くするのかで争いが起こります。
また、イギリスに勝ったものの、戦争による財政赤字は深刻な状況。元々、イギリスによる課税が嫌いで戦争を起こしたのに、その戦争によってかえって新しい自分たちの政府から多くの税金を取り立てられたり、経済が不安定では本末転倒。ワシントン大統領は、非常に大変な政治運営を強いられます。
そして、ワシントン大統領の財務大臣であるハミルトン(1757〜1804年)は、もっと合衆国政府(連邦政府)の権力を強化したいと考え、彼は通貨安定のために国立銀行を造ろうとします。アメリカ合衆国が、自国の通貨を一元的に管理した方が良い、ということですね。
これに対し賛成、反対の声が上がり、次第にフェデラリスト(連邦派)とリパブリカン(州権派)に別れて争います。そして、ここから2つの政党が形成され、激しく争っていくことになるのです。当然、一歩間違えるとアメリカ分裂の危機ですから、ワシントンはかなり憂慮していたとか。
さて、アメリカについてはひとまずこれまで。
次回はいよいよ、フランス革命を見ていきましょう。
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