第46回 フランス革命(2)ナポレオン時代

○ナポレオンの百日天下

 しかし、ルイ18世は昔の栄光を夢見て、フランス革命以前の状態に戻そうとします。
 これに反発する声が非常に高まり、その中でナポレオン復帰を願う声が日に日に高まってきました。ナポレオン、チャンスです。実は、彼自身も約束されていたはずの年金が支払われず生活が苦しかったそうで・・・、1815年3月にエルバ島を脱出し、次々と味方を増やしてパリに入城。大歓迎を受けます。

 ですが、「また戦争になったら経済がだめになる」とフランスの金融業者などはナポレオンに批判的。
 また、既にナポレオンを裏切っていた人々の多くは、ナポレオンの元には戻っていませんでした。先行き不安ですし、そりゃあ、今更どのツラ下げて・・・って感じもしますしね。

 そのためナポレオンは、さすがにイギリスなどと戦うわけにはいかないと考え、和平の道を模索します。
 ですが、既に1814年9月より、イギリス、オーストリア、プロイセンなどはウィーン会議を開き、戦後処理について(会議は踊る、と酷評されたように、昔の状態にするというだけで、具体的には殆ど決まらなかったのですが)話し合っていたところだったので、とにかくナポレオンを倒せ、と、大急ぎで第7次対仏大同盟を結成。

 1815年6月18日、今のベルギー首都・ブリュッセル南東にあるワールテローの戦いで、ナポレオンはイギリスのウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)を総司令官とする連合軍に敗北し、これがナポレオン最後の戦いとなりました(もっとも、それでも戦いの前半戦ではナポレオンが優勢でした)。


Jan Willem Pieneman(1779〜1853年)作 「ワーテルローの戦い」
 アムステルダム国立美術館所蔵。中央の馬に乗った人物が初代ウェリントン公爵・アーサー・ウェルズリー(1769〜1852年)。後ろに息子たちを従えています。

ナポレオン使用のピストル?
 アムステルダム国立美術館所蔵。こちらの二挺ペアになったピストルは、ワーテルローの戦いでナポレオンが使用した(かもしれない)もの。ナポレオンの道具箱を戦いの後に回収した時、その中にあったそうです。
 こうしてルイ18世が亡命先のベルギーより、パリへ帰還。
 ナポレオンは、フランスから離れた南大西洋に浮かぶイギリス領、セント=ヘレナ島に流刑となります。5年半の寂しい生活の末、1821年5月5日、51歳の彼は胃ガンで死去しました。そんなわけで、「こどもの日」を迎えたら、ナポレオンが亡くなった日だなあと思ってくださいませ。

 なお、フランスでは皮肉にも対仏大同盟側に負けたことによって、平和になりました。
 そのため、安定した経済成長が図られましたが、如何せん、ルイ18世の政策が復古主義過ぎる。そんな中、ナポレオンが流刑されていた時に彼の側近だった、ラス・カーズが執筆した「セント=ヘレナ」日記が出版されると、これが大ベストセラーに。フランスの人々は、ナポレオン時代を懐かしく思い、また彼の寂しい最期に同情を寄せます。

 こうして、ナポレオンはフランスの英雄へとなっていくのでした。
 ちなみに、ルイ18世も絶対王政への回帰を主張する弟、アルトワ伯(のちシャルル10世)らによる過激な運動に悩まされ続け、政治運営は大変なものだったようです。おかわいそうに・・・。

○料理外交家、タレーラン

 ところで、私としては引き続きタレーランに注目してみたいと思うんです。
 元・聖職者で、国民議会議長を務め、さらに革命の激化で粛清の嵐が吹き荒れるとイギリス、アメリカへの亡命で乗りきり、1796年に総裁政府の外務大臣に就任。そしてナポレオンを皇帝の座に就け、そして彼を追い出し、新政権の中枢に座った世渡り上手な、この男(つまり、誰が政権を握るか常に予測できていたわけ)。フルネームはシャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールと、少々長い名前ですが、彼は料理を使った外交が得意だったそうです。

 漫画「大使閣下の料理人」(小学館)で紹介されていた話ですが・・・。
 ある時、タレーランは2匹の大きなヒラメを手に入れました。これは金持ちじゃないとなかなか出来ないことだったようで、さっそく賓客にふるまうことにしますが、しかし2匹同時に出したら「なんだ、自慢かよ」とかえって反発を喰らうことは想像できます。そこで、まず1匹目の大ヒラメを客の目の前で皿からこぼして、台無しにしてしまいます。タレーランの脚本を知らない客達は
 「ああ、勿体ない。食べたかったのに・・・。」
 と、こう残念がります。そこへ、タレーランは2匹目の大ヒラメを持ってこさせるのです。
 「何と素晴らしい!」
 とまあ、客は拍手喝采だとか。

 なお、タレーランはナポレオン没落後も活躍。1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、イギリス大使を務めています。そんなわけで何かと問題の多い人物でしたが、とにかく有能な男だったようです。実際、ウィーン会議で敗戦国でありながらフランスの権益を出来る限り保全し、イギリス大使時代にはイギリスと強固な同盟を結ぶことに成功しています。

 ちなみに料理といえば、この時代に貴族が没落したことによって「お抱えの料理人」が職を失います。その結果、彼らは街でレストランを開くようになりました。こうして、フランス宮廷料理は一般へと門戸を広げていくことになるのです。また、新大陸からの様々な食材、例えばジャガイモや唐辛子が普及した他、ステーキやカレーもフランス料理の中に登場していきます。

○アメリカ・イギリス・フランス

 さてさて、かなり長くなってしまったが如何だったでしょうか。
 最後にもう1つ、フランス革命をめぐってのアメリカとイギリスとフランスの駆け引きも御紹介しておきましょう。

 1793年、フランスはイギリス、オランダ、スペインに対し宣戦を布告します。
 「ようやくアメリカという国を作り始めたところなのに、戦争に巻き込まれたらたまらん」
 ということで、アメリカのワシントン政権は、中立政策をとりますが、イギリス側はこれを拒否。フランス領西インド諸島と交易するアメリカの商船を次々と拿捕し、250隻以上がその餌食となります。そlこでアメリカは連邦最高裁判所首席判事のジェイを派遣。イギリスと交渉を行い、ジェイ条約を締結します。これによって、イギリスはフランスへの農産物の輸出は認めないが、その代わり、イギリス領西インド諸島との貿易を認め、さらにアメリカに最恵国待遇(つまり、もっともイギリスと有利な貿易条件を与える)を認めます。

 ところが、イギリスと仲良くするアメリカを見てフランスが反発します。
 今度は、フランスがアメリカ商船の拿捕を開始しました。そこで、アメリカ第2代大統領J・アダムズ(1735〜1826年)は特使をフランスへ派遣。ところが、フランス総裁政府のタレーラン外務大臣、アメリカからやってきた特使に対し賄賂を要求しちゃいます。完全に馬鹿にしたわけですが、これはタレーランの失策でした(これをX・Y・Z事件といいます。やけに格好良い事件名ですが、ウソじゃないですよ)。

 J・アダムズは防衛力を強化し、海軍省を創設。1798年には宣戦布告のないまま、フランスと戦争を開始するのです。これにはタレーランも驚き、和平に向けて外交交渉を続け、ナポレオンが政権の座に就くと1800年9月末にモルトフォンテーヌ条約が締結。フランスの中立を認めることで、何とか和平にこぎ着けました。

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