第47回 ウィーン体制とギリシャの独立

○今回の年表 (長くてご免なさい)

1814年 ナポレオン、退位に同意しエルバ島に流される。ルイ18世による王政復古。ウィーン会議が開かれる。
1814年 (イギリス)スティーブンソン、蒸気機関車を開発。
1815年 ナポレオン、エルバ島よりパリへ帰還。しかし、ワールテローの戦いで敗北し、セント・ヘレナ島に流刑。
1816年 アルゼンチンが独立宣言。
1821年 ペルーが独立宣言。翌年にはブラジル帝国が成立。
1821年 ナポレオン、胃ガンで死去する。
1824年 ギリシャがオスマン=トルコから独立
1830年 フランスで、ルイ・フィリップが国王として即位(7月革命)。
1863年 ギリシャ王としてゲオルギオス1世が即位。

○会議は踊る、されど進まず


 話がちょっと前に、そして繰り返しになりますが、1814年にナポレオンが退位に同意し、エルバ島に流されると勝利国の面々はオーストリアのウィーンで会議を開きます。

 議長は、オーストリア外相(のち首相)メッテルニヒ
 各国代表は、イギリスからはカースルレー外相と、ウェリントン公、プロイセンからはハルデンベルク首相、ロシアからは皇帝アレクサンドル1世、フランスからはタレーラン外相が派遣されました。

 さて、ウィーン会議と呼ばれるこの会議。出席者の皆様、ナポレオンが去ったあとのフランスをどうしようか、腹のさぐり合い。それもそのはず、ナポレオンによって中央ヨーロッパから西ヨーロッパまでの地域が占領されちゃったのですから、解放されたこれら地域をどうやって戦勝国で分配するのか。

 ・・・。・・・。・・・。まぁ、いいや、取り敢えず踊りましょうよ!
 と、オーストリアのシェーンブルン宮殿で連日、お偉いさん達は舞踏会三昧。おかげで、「会議は踊る、されど進まず」とリーニュ公爵という人物に揶揄(やゆ)、つまり馬鹿にされ、このキャッチフレーズは今に至るまでこの会議を表す象徴的な言葉になっています。

 もっとも、当時の外交というのは、こうやって一見すると貴族同士が宴会をしたり、踊ったり、女性を口説いたりしながら、その影で色々とスパイ網を張り巡らせて情報収集したり、根回ししたり、というものでした。何もこの会議だけが異常だったというわけでは無さそうです。まあ、こんな貴族同士の、いわゆる宮廷外交、最後の時代、といったところでしょうか。

 この状況を見ていたナポレオンが再び立ち上がり、再びパリに入った、との情報が入ったので皆様方ビックリ。
 ナポレオンを撃破すると同時に、大慌てで会議が進行し、ナポレオンが再度失脚した1815年6月、ウィーン議定書が調印されました。さてさて、ダンスから解放された出席者の皆様は、どのように戦後処理することにしたのでしょうか。

 1.フランスは革命前の正統な王朝、ブルボン王朝が支配し、革命前の体制に戻す。領土は1789年当時とほぼ同じに。
 2.スペイン、ナポリも従来のブルボン王朝を復活させる。
 3.ロシア、イギリス、プロイセン、オランダが持っている領土を拡大、もしくは交換。
    例えば、イギリスはオランダからセイロン(スリランカ)と、南アフリカのケープ植民地を獲得。
    ただし、オランダはオーストリアからベルギー(南ネーデルラント)を獲得する。
    一方、オーストリアは北イタリアのロンバルディア、ヴェネツィアを獲得する。
    そして、ロシアはスウェーデンよりフィンランドを獲得。
    さらに、スウェーデンはノルウェーを獲得。
    プロイセンはザクセン地域と、スウェーデンから西ボンメルンを獲得。
    イタリア半島の西にある島の、サルディーニャ王国はサヴォイア、ジェノヴァを獲得。
 4.神聖ローマ帝国は復活させない。帝国内にあった300あった君主国等を整理し、
   35君主国と、4自由市からなる緩やかな連合体であるドイツ連邦を作る。
   ただし、ハプスブルク家が支配するオーストリアはドイツ連邦加盟を認めるが、ハンガリーなど他の地域は入れない。
   (その代わり、ハプスブルク家がドイツ連邦の盟主的な地位になります。しかし、次第にプロイセンが勃興)
 5.ワルシャワ大公国を改組し、ポーランド王国が誕生。ただし、国王はロシア皇帝が兼任。
 6.スイスを永世中立国とする
 7.国際河川(つまり、複数の国にまたがる川)は、船の航行は自由とする
 8.奴隷貿易を禁止する

 と、こう決定しました。これを、ウィーン体制といいます。
 全体的な傾向としては、また昔のような封建的体制に戻そうぜ(正統主義)、という感じです。しかしドイツ連邦が誕生し、神聖ローマ帝国は復活しませんでしたし、フランス革命の産物であった「自由」を目的とした諸制度を味わった人々は、王侯貴族中心の昔の体制なんかに戻りたくはありません。様々な反乱が起こり、各国政府は対応に苦慮していくことになります。

 メッテルニヒも
 「私は生まれるのがあまりに早すぎるか、遅すぎた。私は崩壊していく建物を支えながら人生を送っている」と自嘲しています。それでも、彼自身はナポレオンのような突出した人物によってヨーロッパがかき回されないよう、様々な国が微妙なバランスの上で勢力均衡するように、いわゆるメッテルニヒ体制を造り、その後も様々な会議でイギリスと協調しつつ、外交を展開していきます。

 もっとも、その後メッテルニヒ体制は崩壊し、彼が引退したあとの自国オーストリアの外交の拙劣さに
「我々の使命は平和の確立に貢献することだ。それは、東(ヨーロッパ)に対する西の、西に対する東の前衛になることではない」と、嘆いています。

 余談ですがメッテルニヒはドイツ語はもちろん、英語、イタリア語、フランス語、ロシア語に通じ、しかも超美男子。女性にはそれはもう大人気で、彼自身も生涯に3回も結婚。3回目は70歳のときで、32歳年下の女性と・・・てなわけで、男としてはうらやましい限りです。あ、決して離婚を奨励しているわけじゃありませんよ。

○ギリシャの独立

 さて、古代を除けばあまり登場してこなかったギリシャ地域。
 中世には東ローマ(ビザンツ)帝国に支配されていましたが、1435年にビザンツ帝国がオスマン=トルコ帝国に滅ぼされると、オスマン帝国の全面的な支配を受けていくことになります(地域によって支配を受け始めた年代は色々です)。これに対し、ギリシャの人々は抵抗をはじめ、1770年にロシアの援助で反乱を起こします。ただし、これは鎮圧。

 それからしばらく後、フランス革命が発生すると、再び立ち上がります。
 1814年、秘密結社エテリアの指導者、イプシランディスは、トルコの支配下にあったモルダヴィア国(現在はルーマニア東北部など複数国にまたがる)の首都ヤーシで、ギリシャの独立宣言を行います。しかし、これも鎮圧。ところが、もはや付いた火は止められない。今度は、ギリシャ本土のパートレの司教ゲルマノスが大規模な反乱を起こします。司教が反乱の首謀者ってのは凄いなあ・・・。

 そして1824年になると、エジプトからオスマン=トルコ帝国支援の軍勢が到着したため苦戦しますが、なんとかギリシャからオスマン=トルコを追い出すことに成功するのです。こうして、ギリシャ共和国が誕生し、ギリシャは大統領制の国家となりました。そして、他方で行われていた露土戦争(ロシア・トルコ戦争)でオスマン=トルコ帝国が敗北すると、アドリアノープル協約が締結され、ギリシャに対する一切の権益を放棄することになりました。

 一時は、ウィーン包囲まで行ったオスマン=トルコ帝国ですが、イラクなどでも反乱が起こるようになり、かつての栄光はどこへ。こうして転落していくことになります。さて、ギリシャの皆さん良かったですね、めでたしめでたし・・・。

 と、話は終わらない。
 ギリシャは地中海を制する上で重要な拠点の場所の1つ。ヨーロッパ列強国としては是非、ギリシャをヨーロッパの一員として確固たるものにしたい。よし、ならば共同でギリシアを支配してしまえ、と1830年、フランス、イギリス、ロシアはロンドン議定書をかわし、ギリシャ憲法を無効とし、3国共同の保護下にギリシャを置きます。また、ギリシャの領土を大幅に縮小。

 さらに1832年、バイエルン(ドイツ南東部)のオソンという人物がヨーロッパ列強の要請でギリシャ王になります。が、バイエルンから来た役人の横暴な態度、さらに領土を縮小された恨みから革命が起き、取り敢えずオソンは憲法を承認させられます。しかし、1862年にギリシャ軍の一部がクーデターを起こし、オソンを退位。ヨーロッパ列強と協議の上1863年、デンマーク王クリスティアン9世の次男がゲオルギオス1世として即位しました。そして、翌年にはより民主的な憲法の制定で、成年男子は普通選挙を行えるようになります。

 また、ギリシャをなだめるためにイギリスはイオニア諸島をギリシャに返還。
 これ以後、バルカン戦争などでギリシャは領土を拡大していくことになるのですが、一方でバルカン半島全域に戦争が広がり、いわゆるヨーロッパの火薬庫として非常に危険なレッドゾーンとなっていきいます。極端な話、ある程度落ち着いたのはつい最近・・・。

 なお、常連の相良義陽さんによる補足ですが、本来であればギリシャの独立というのはウィーン体制で決まったはずの体制を覆しかねないものでした。ところが、この時期ヨーロッパでは古典主義が盛り上がっており、かつてのギリシャに対する憧れというのが高まっていたので、ギリシャの独立を支援しようという動きが広がっていたのです。

 古典主義が盛り上がっていた理由はいろいろあると思います。キリスト教からの脱却、共和主義・民主主義の源流としてのギリシア・ローマへの憧れ、等。フランスでナポレオンが古典主義を擁護したというのも大きいかも知れません。(ナポレオン体制下ではローマ起源の言葉が頻出します。「統領」制とか、「皇帝」、それに「チサルピナ」「ヘルヴェティア」「イリリア」など)

 産業革命で発生した新しい都市市民層(いわゆるブルジョワ)が、社会的上昇のために従来の貴族社会への対抗軸として持ち出したというのもあるかもしれませんね。

 なお、ギリシャ独立戦争に関しては、多くの知識人がギリシア独立戦争に義勇軍として参加しました。
 彼らは、「残虐なトルコ人に支配されたヨーロッパ文明の先駆者たち」を救おうと努力したわけです。そして、この声を国際社会は無視できなかった、ということになります。  ただし、こういったレッテルはヨーロッパ側からの一方的な思いこみでした。
 義勇軍はギリシアで、解放軍が単なる夜盗の群れであるということに気付いてショックを受けますし、ドイツのファルメライヤーという学者は、現在のギリシア人は結局のところスラヴ人であって古代ギリシア人とは全く関係ない、と主張して大論争を巻き起こしました(実のところ、ギリシア人内部でも「ギリシア人」についての共同見解があったわけではないようです。独立当初は古典ギリシア語の復活を目指したりする一方で、のちにはビザンツ帝国の復興を主張してトルコに攻め込んだりもします)

 なかなか複雑な話です。

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