第48回 今度はフランス「7月」革命だ!

○今回の年表

1821年 ペルーが独立宣言。翌年にはブラジル帝国が成立。
1821年 ナポレオン、胃ガンで死去する。
1824年 シャルル10世が即位する。
1824年 ギリシャがオスマン=トルコから独立
1830年 フランスで、ルイ・フィリップが国王として即位(7月革命)。
1833年 イギリスで工場法が制定される。
1834年 アルジェリアがフランスの植民地となる。
1840〜42年 アヘン戦争。イギリスが清を撃ち破る。
1841〜43年 (日本)水野忠邦による天保の改革が行われる。
1848年 フランスで2月革命によりルイ・フィリップが失脚。オーストリアではメッテルニヒが失脚。
1852年 ナポレオン3世が即位。
1853年 クリミア戦争が勃発する。
1854年 日米和親条約が締結。

○今更体制戻してどうするのよ

 さて、話をフランスに戻しましょう。
 ルイ18世については、第46回で紹介した通り。彼のあとを継いだのが、弟のシャルル10世(位1824〜30年)です。兄弟揃って、かつての栄光を夢見て、一部の特権階級による政治を行います。もちろん、これまでの革命で失われた亡命貴族達の土地や財産の多くを回復し、保障。一方で選挙権は制限され、出版の検閲を強化します。

 そうしますと、当然国民の不満が高まっていきます。これをどうやって解消しようか。
 そうだ、奴らの不満は海外に向けてしまえと、シャルル10世は、北アフリカのアルジェリアに出兵させます。戦争で景気よく勝って、領土を獲得し、喜ばせてやろう、というのが狙いですね。

 こうして、既にイギリスやアメリカの攻撃を受けていたオスマン=トルコ帝国領のアルジェリアは、国家としてこれに対抗する力はなく、1830年にフランスに占領され、1834年に植民地となってしまいました。そして同地域は、今までオスマン=トルコ帝国が緩やかに間接支配していたのに対し、フランスは強行的な政策をとるので、当然のように反乱が起きます。特に、イスラム聖職者アブド・アルカーディル(1808〜83年)が起こしたは反乱は、神出鬼没。1847年に鎮圧されましたが、彼はアルジェリアの英雄として名を残しています。

 ちなみに、彼はフランスに降伏したあとは、フランスで幽閉され、最後はシリアのダマスカスで亡くなっています。
 没年を見る限り、反乱終了後も結構長生きしましたね。反乱の首謀者で敗北者側としてはちょっと珍しいかな?と思います。フランスとしては、彼の身柄を拘束して長生きさせた方が特だと考えたのでしょうか。

 さて、アルジェリアを占領した1830年といえばフランスで選挙がありました。
 前述の通り、選挙権は大きく制限されているので投票できたのは、産業革命の恩恵にあずかった一部の資本家達(繊維業者や銀行家)ですが、実はそうした金持ち連中でさえ、この強行的な国王には不満だったのです。そこで、選挙の結果は、反国王派の大勝利。そこで、シャルル10世、「ワシはこの選挙の結果は認めんぞ!」と議会を解散し、出版を自由できないようにします。

○7月革命

 こうしたシャルル10世の独裁的な政治に対し、同年7月27日。
 パリ市民が蜂起し、軍隊と衝突。そして、これに3日で勝利すると、シャルル10世を退位させ、ルイ14世の弟、フィリップ平等公の子孫である、オレルアン公ルイ・フィリップを国王に迎えました。これを、7月革命といいます。この時、ルイ・フィリップ擁立には、フランス革命で活躍したラ・ファイエットもパリ国民軍司令官として協力しています。

 この再び発生したフランス革命は各国に衝撃を与え、1831年にはベルギーがオランダの支配から独立。ここ、ウィーン会議でオランダに併合されていたのですが、フランス系住民が多く、宗教はカトリックと、ドイツ系・プロテスタント系のオランダ地域と異なりますので、上手くいかなかったのです。

 さらに、ポーランドでもロシアの抑圧に対し、ワルシャワで反乱が起こっています・・・が、これは鎮圧。ポーランドを代表する作曲家であるショパン(1810〜49年)は、亡命先のドイツ・シュトットガルトでこの反乱鎮圧を嘆き、憤慨し、練習曲(エチュード)「革命」という激しい雰囲気の名曲を書き上げています。

 さて、新国王となったルイ・フィリップ。
 彼は、自由主義者として名高く、ルイ18世には「フランスにいてはならん!」と追い出されていたぐらいです。
 ところが、国王の座に就くと、最初は「フランス人の王」と格好良いことを言っておきながら、その政策は金持ち資本家の言うことしか聞きません。特に、選挙は相変わらず一部の人間のみに与えられた制限選挙制で、産業革命の進行によって生じてきた都市化、労働者の問題などに有効な対策が打てませんでした。

 一部の特権階級を優遇する方が国王として美味しい汁を吸えたのでしょうし、実際の問題として、資本家の協力がなければ政治が出来なかったんだと思いますが、このために彼は、ブルボン王朝最後の王となっていきます。このルイ・フィリップによる政権(7月王政)の本質は、ギゾー首相の以下の言葉に良く表れているでしょう。
「選挙権が欲しければ、金持ちになることだ」

 正確に言えば、「勤労と節約によって金持ちになりたまえ」らいしんですけどね。
 もちろん、どちらにせよ要は「金持ちになることが第一だ」といった感じです。

○2月革命

 さて、それでも15年ぐらいは何とか運営されていたルイ・フィリップの王政ですが、1845年夏にはジャガイモが、46年には小麦・ライ麦が不作となり、パンの価格が2倍以上に上がり、人々の生活を大幅に悪化させます。さらに当時、イギリスの経済が不調だったこともあり、フランスにも波及。各地で暴動が起きますが、政府は大した手が打てませんでした。

 また、選挙権を拡大せよ!という主張も活発に行われていきます。

 そして1848年2月、政府が、改革派の集会(改革宴会=反政府性を薄めるために、宴会をするという名目で行われた集会)を弾圧したことに対して革命が起きます。慌てたルイ・フィリップは、ギゾー首相を更迭しますが、デモはやむ気配がありません。さらに悪いことに、国王正規軍が発砲し、デモ隊に死者が出たものですから、もうヒートアップ!! 人々は王宮へとなだれ込み、ルイ・フィリップは亡命しました。

 そして成立したのが、デュポン・ド=ルールを首班とする臨時政府です(第二共和政)。
 もっとも、主にこの革命の原動力となった労働者は「トップが変わっただけではないか?」という疑念が当然生じるわけで、この新政府に詰め寄って、社会主義者ルイ・ブランと、機械工アルベールを臨時政府に入れることを認めさせました。また、21歳以上の男性全員に選挙権が与えられ、女性には選挙権がないのですが、一般には「普通選挙制」が実現したとされています。

 ちなみに、この動きはオーストリアにも波及し、あのメッテルニヒが失脚、亡命(三月革命)。
 これによってウィーン体制が崩壊した、とされています。また、オーストリア領ではイタリアやハンガリーなどでも民族運動が発生しますが、これは鎮圧。一方、プロイセン王国でも同じ月に暴動が起こり、このため憲法が制定されています。

○国立作業場問題

 さて、フランスに話を戻しまして。
 労働者達としては、この機会にもっと要求をして自分達の過酷な環境を改善しないといけないと考えます。一方で臨時政府側も労働者のご機嫌を取らないといけません。そこで、リュクサンブール宮殿に於いて、ルイ・ブランを委員長とする、リュクサンブール委員会が発足。これと言った権限も予算もないものでしたが、それでも労働時間の短縮が実現され、パリでは10時間、地方では11時間を労働時間の限度とする、とされました。どこまで守られたかは・・・微妙ですけど。

 ちなみに、今の日本では法律で定められた労働時間は8時間で、それ以後働かせる場合には残業ということになります。

 それから、色々と労働問題に対して手が打たれましたが、この中で国立作業場というのが設立されます。これは、失業した労働者を救済するために、国立作業場に参加した労働者には 公共土木工事を割り当て、1日2フランを支給。まあ、ここまでなら失業対策の一環として悪くはないように見えますが、しかしそんなに公共土木事業がたくさんあるわけではありません。

 そうしますと、国立作業場でも仕事がもらえなかった労働者が不公平ではないか。
 そこで、仕事がもらえなくても1.5フランが支給されることになりました。・・・これは、当面の生活をする上では悪くはない。というわけで、それはもう、我先にと労働者が国立作業場に集結します。当然、何の仕事がない人達にも次々と1.5フランがどんどん支給されていきます。これは、臨時政府の財政を大きく傾かせます。

 じゃあ、この制度をやめよう。
 ・・・な〜んて、こんな美味しい特権を労働者達が手放すわけはありません。ここを追い出され、再び失業か、劣悪な環境下で資本家に「こき使われる」なんて、まっぴらごめんです。そこで、臨時政府は増税に踏み切ります。こうなりますと、非労働者階級の人々の不満がUP! おのれ、社会主義者のルイ・ブランめ! と怒りの矛先が向きました。

 進退窮まった、哀れなルイ・ブラン。
 この頃、ポーランド独立支援を訴えた人々が、議会へ乱入する事件があったのですが、「お前が手引きしただろう」と追求され、亡命しました。

 そうこうしているうちに、選挙が行われます。
 皮肉にも、選挙は男性に限れば普通選挙ですので、労働者以外にも実に多くの人々が投票を行います。その結果、特に農民の方々が社会主義的な政策で労働者優遇、下手をすると土地は全て国のもの・・・なんて言われるのを恐れた上で投票したので・・・(あ、社会主義については次回紹介しますよ)。

 労働者側の候補は大敗を喫し、政府のメンバーも一部を除き大幅に刷新されてしまいました。さあ、労働者の皆さんはピンチ!! 実際、トレラ公共事業相は、国立事業場の労働者に対し
 「兵隊になるか、地方で土木作業をするか、どちらかを選びたまえ」
 と通告します。これに対し、労働者達は立ち上がります(六月蜂起)。しかし、政府軍に徹底的に弾圧され、即刻銃殺された人間は1500名、逮捕者2万5000などに及びました。

 そして、国王がいなくなったフランスでは、選挙で大統領を選ぶことになります。
 2月革命から、ここまで全て1848年に起こったことですが、その締めくくりとなる12月10日。大統領選挙で圧勝したのが、ルイ・ナポレオン(1808〜73年)でした。あの、ナポレオン皇帝の甥で、かつてのフランスの栄光を懐かしんだ人々にとっては、輝かしい名前を持つ人物だったのです。そして、議会の主流だった王党派が復古主義的な政策をとるので(まるで反省がないですね・・・)、国民からの支持を失っていたのを期に、1851年にクーデターを起こし独裁権を確保。

 そして、翌年には国民投票で皇帝となり、ナポレオン3世(位1852〜70年)を名乗りました(第二帝政)。

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