第51回 ヴィクトリア女王時代(2)グラッドストンとディズレーリ
○(現在の)国会議事堂の完成
さて、ビッグベンでおなじみ、ロンドンの国会議事堂。この姿を見れば「ロンドン」だと誰もが解るぐらい、有名な建物ですね。この時代に現在見られる建物が完成しました。
現在の建物は、ここにあったウエストミンスター宮殿が焼失した後に建てられたもので、1852年に完成しました。 部屋数は1000、廊下の総延長3.2km、総面積3万3000平方kmという壮大なもの。
ちなみに時計台であるビッグベンは1859年の完成。高さ95mで、名称の由来は建設責任者のベンジャミン・ホール郷に由来する説と、19世紀後半の名ボクサーのベン・カウントに由来する説の2つがあるそうです。
ご覧のように起伏に富んだ形状となっており、撮影する方向によって様々な表情を見せてくれます。それにしても、何とまあ芸術的な建物なのでしょうか。では、国会議事堂の建物を紹介したところで、この時代のイギリスの政治を見ていきましょう。
○19世紀後半を代表する2人の政治家
19世紀後半のイギリス政治の中心で絶大な影響力を持ったのが、ウィリアム・イーウォート・グラッドストン(1809〜98年)と、ベンジャミン・ディズレーリ(1804〜81年)です。どちらもトーリー党(保守党)出身ですが、グラッドストンの方は自由党に移籍して活躍した政治家です。グラッドストンはリバプールの裕福な家庭で生まれた人物。1832年にトーリー党で初当選を果たし、当初は奴隷制擁護など保守的な人物だったのですが、1843年にビール内閣の商務相を務めた時に自由貿易に関する仕事を担当。この中で彼は「自由貿易のほうがいいのではないか」と考えるようになり、1859年には自由党へ入党。パーマストン内閣の蔵相として活躍します。
一方のディズレーリです。
ロンドンのユダヤ系の家庭に生まれ、のちにイギリス国教会に改宗したディズレーリは若い頃に株で失敗し、借金を返すために小説を書き始めたという異色の人物。そこそこ小説が売れたのち政界進出を試みますが4回も落選。それでも諦めず、ヴィクトリア女王が即位した1837年にトーリー党から出馬して当選。そして、ダービー内閣の蔵相を務める一方、労働者階級に選挙権を拡大しようと法案を提出し、1867年に第2次選挙法改正法案を実現することが出来ました。
有権者拡大が仇となり、1868年に首相に就任するも総選挙で自由党に早速敗北し、野党に転落。自由党による第1次グラッドストン内閣が成立します。そしてこの内閣は、
1.初等義務教育制度の導入
2.秘密投票制の採用
3.官吏任用試験の導入
4.陸軍将校職の買官制度の廃止
5.アイルランド土地法(アイルランド国教会を廃止し、小作人に一定の保護を与えた)
という改革を実行。このうちアイルランドは、現在も一部がイギリス領ですが、19世紀にジャガイモの不作に伴って大飢饉に。このためにアメリカ合衆国へ多くの移民がでました。一方、アイルランドに残った人々はイギリスに対する不満が蓄積中。グラッドストンは、これを解決したいと考えていたのです。
ところが、こういった一連の改革は性急すぎる、と不満を持つ人達も多かった。
1874年の総選挙では保守党が政権を奪取し、第2次ディズレーリ内閣が成立します。
彼はヴィクトリア女王の支持も得て様々な改革を実現し、特に自分が選挙権を与えた労働者を保護し(次の選挙で保守党に投票してもらわないといけないですからね)公衆衛生問題や都市の再開発に取り組みます。
また、1875年にはエジプトからスエズ運河の株式を買収。翌年、インドを併合しヴィクトリア女王をインド女王との兼任とします。さらにオスマン=トルコ帝国からキプロス島を獲得するなどイギリスにとって数々の国益をもたらしましたが、1878年末に発生した第2次アフガン戦争で、アフガニスタン軍の抵抗に手を焼き莫大な戦費をと投入。勝ちはしたものの、これが失点となり1880年の総選挙で敗北。
そして、再びグラッドストンの登場です。
一度は政界引退までしていましたが、ディズレーリの帝国主義政策を批判し勝利できたのです。
そしてグラッドストンは、腐敗選挙防止法、第3次選挙法改正(有権者を農村の成年男子まで拡大)、小選挙区制本格導入などを実現します。ところが、アフリカのスーダンで起きたマフディーの反乱への救援軍派遣が遅れ、現地で317日も籠城し、援軍を待っていたゴードン将軍(1833〜85年)を戦死させてしまったことから国民の批判を浴びます。
*ゴードン将軍ってのは、中国史をやっていた方は耳に挟んだことがあると思いますが、太平天国の乱の時に清王朝の支援へ派遣された人物。他にもクリミア戦争、アロー戦争でも活躍し、世界各地で転戦する歴戦の猛者で国民からの人気が高かったんです。
また、アイルランドに自治を与えようと何度も法案を提出するのですが、これは否決。アイルランドの人々はこれに大きく失望し、これは独立運動に発展してしまいました。そして第4次グラッドストン内閣を組織するも1894年に総辞職しました。
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