59回 第一次世界大戦
○起こるべくして起こった?
こうして、バルカン半島を巡ってヨーロッパ中が緊張。主に、ドイツ、オーストリア側のパン=ゲルマン主義と、ロシア側のパン=スラブ主義という、民族同士の対立がヒートアップしていたんですね。
しかも、ドイツとフランスがモロッコを巡って争うなど、植民地争いも最高潮に達していました。特にこのモロッコ、2度にわたってドイツはフランスと争うのですが、イギリスがフランスを支援するものですから、さすがに野望を諦めざるを得なかったのです・・・が、悔しい、という状態でした。
そして、1914年6月28日・・・。
オーストリアの帝位後継者だったフランツ=フェルディナント大公夫妻は、陸軍大演習を視察するために、ボスニア州都サラエヴォに来ていました。もちろん、陸軍の大演習ということは、この地域にオーストリアの力を示そうと狙っていたもの。その頂点に君臨する予定のフランツ=フェルディナント大公ですから、彼の考えがどういうものであったか、よく解ると思います。それは当然、「我が祖国、セルビアを脅かそうとしているな」と、1人のセルビア人青年を暗殺者に変えました。その人物の名はプリンツィプといいます。彼は、サラエヴォ市庁舎を出て、車で移動する大公夫妻を暗殺することに成功しました。
当然、オーストリアは激怒します。
「セルビア政府がこの事件の首謀者だ。この事件の捜査を、セルビア領地内で好きにやらせてもらう。いいな!」
と、詰め寄ります。そんなこと、セルビアには認められるはずがありません。断固拒否です。こうして、7月28日、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦布告します。そして、前回見た三国協商、三国同盟の陣営に分かれ、各国は争うことに。
日本も日英同盟に従い、中国の山東省にあったドイツ領に対し攻撃を開始。
こうして、戦場はヨーロッパだけでなくアジアにも広がり、第1次世界大戦という史上類を見ない激戦が始まったのです。
○戦いの構図
まずは、対立の構図から。
○同盟国側
ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブルガリア
VS
○連合国側
イギリス、フランス、ロシア、日本、ポルトガル、イタリア、セルビア、ギリシャ、ルーマニアなど
○中立
オランダ、ベルギー、スペイン、ノルウェー、デンマーク、
スウェーデン、スイス、アルバニア
さあ、それでは流れを見ていきますよ。
まず1914年6月28日に、サラエヴォ事件が起こったのは前述の通り。そして7月26日、イギリス外相グレーは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国大使会談による危機回避を提案しましたが、ドイツは拒否し、2日後、オーストリアがセルビアに宣戦布告して戦いがスタートします。
さらに8月1日に、ドイツがフランスとロシアに宣戦を布告し、さらに8月4日、ドイツ軍は中立国だったベルギー侵入。そのまま北フランスに攻撃を開始すると、同じ日にイギリスはドイツに対して宣戦布告します。そして、同月23日、大隈重信内閣による日本は、ドイツに対して宣戦布告します。
それからしばらく後の1915年5月23日、なんとイタリアがオーストリアに対して宣戦布告。
領土を巡ってオーストリア、オスマン=トルコなどと対立した結果で、ここに三国同盟は解消されました。
○短期決戦のつもりだったが
さてドイツは、東のロシア、西のフランスに挟み撃ちにされて戦うことを避けなければいけません。そこで1891〜1906年に陸軍参謀総長だったシュリーフェンが考案した、シュリーフェン・プラン(計画)に基づき、全軍の4分の3にあたる100万人をヨーロッパ西部戦線に結集してベルギーを突破し、約6週間でフランス軍を打倒した上で、その後に東部戦線にひきかえしてロシア軍を撃破するという作戦を実行します。何で先にフランスと戦うのかというと、ロシア軍の動員は遅れるだろうから、ドイツにまで侵入するには時間がかかるだろうと考えていたからです。
ところがどっこい!
確かにドイツ軍のこの動きに対して、フランス政府はボルドーへと避難しました。
しかし、パリはガリエニ司令官の呼びかけで市民たちが義勇兵を組織し、これを防衛します。
さらに、意外にロシア軍が早く到来し、手薄になっていた東プロイセンへ侵入します。慌ててドイツのモルトケ参謀長官は、東部戦線に兵力を増派。東部第8軍司令官ヒンデンブルク(1847〜1934年 1911年に退役していたが復帰)と、ルーデンドルフ参謀長率いるドイツ軍は、1914年8月26日〜30日に、タンネンベルクの戦いでロシア軍を包囲し、これを撃破することに成功します。これによってヒンデンブルクは国民的英雄となり、陸軍元帥、のちには参謀総長へと出世し、ルーデンドルフと共に軍の実権を握ります。
しかし、当然のことながら西部戦線に割ける兵力が減ってしまいます。しかも強固なコンクリートと、ダダダダと連射可能な機関銃というのが本格的に登場した頃だったので、従来の戦法が通用しづらくなっていました。
そのため、肝心の対フランス戦(マルヌの戦い 9月5日〜12日)では、突撃をかけるドイツ軍に対し、フランス軍の機関銃の連射にやられる。それはまあ、むこうも同じなので、迂闊に手を出すことが出来なくなってしまいます。兵士たちは銃で撃ち合うよりも、スコップで穴を掘る作業に没頭するようになっていきました。いわゆる、塹壕(ざんごう)造りです。そして、コンクリートで堅め、有刺鉄線を張り相手の出方をじっと待つようになります。
また、塹壕だけでなく要塞もなかなか強力。
コンクリートで造られたフランスのヴェルダン要塞(ベタン将軍が防衛)は、1914年2月〜12月の間に、なんと12万発の砲爆撃を受けても破壊できませんでした。そうしますと必然的に時間がどんどん過ぎていくことになります。また、モルトケは解任されました。
○ならばどうするか〜新兵器の数々〜
そうしますと求められるのは、こうした事態を突破することの出来る新兵器です。1915年、ドイツ軍は塩素ガスを使った毒ガスをベルギーの戦場で使用。このため、この後の戦いでは防毒マスクをかぶって戦う風景が見られるようになっていきます。これではあまり意味がない。そこで1916年、北フランスで行われたソンムの戦いでイギリス軍は、マークT型と呼ばれるタンク・・・すなわち戦車を使用します。
簡単にいってしまえば、農業用トラクターを改造した鉄の箱に機関銃をつけて突進。
鉄の塊が有刺鉄線を突破し、塹壕を突き抜け敵陣へレッツゴー!です。この兵器は、恐ろしいほどの速さで改良が重ねられ、第2次世界大戦では主力兵器として使用されていきますが、それはまた今度の話。
それから、ドイツの元・陸軍中将ツェッペリン伯爵が退役後の1900年に発明した飛行船ツェッペリン号が空よりベルギー、イギリスを爆撃します。海に囲まれていたイギリスは、空からの攻撃に非常に驚いたようです。もっとも、ある程度の効果はあげましたが、対空放火を受けやすく、天候にも左右されやすいことから次第に実戦では使われなくなっていきます。その後、商用輸送で活躍しましたが、1937年のヒンデンブルク号の水素爆発事故で、その地位を大きく低下させてしまっています。
一方でこの後、劇的な発展を遂げたのが飛行機(航空機)。
1903年に、アメリカのライト兄弟が初飛行に成功した飛行機も実戦に投入され1915年半ばからは飛行機同士の戦闘も盛んになっていきます。
○他にも色々書きたいこともありますが
さて、イギリスVSドイツのユトラント沖の大海戦や、オーストリア、セルビア、オスマン=トルコの動向など、第1次世界大戦については色々と書きたいこともありますが、とにかく膨大になってしまうので、以後は要点だけ。長らく「名誉ある中立」として、沈黙を保っていたアメリカでしたが、ドイツがイギリスに物資が来ないよう、海上封鎖を実施。そして1915年7月1日に、イギリスの客船ルシタニア号を撃沈したところ、アメリカ人乗客128名が死亡。これによってアメリカの怒りをドイツは買ってしまいます。驚いたドイツは、しばらくむやみな攻撃を控えますが、戦況が悪化するに従ってそうも言っていられなくなった。
そこで1917年2月1日、ドイツはUボート潜水艦を使って、周辺海域に来る船を無差別に攻撃する無制限潜水艦作戦を開始します。これにはアメリカ政府も激怒。しかもこの頃、アメリカは多くのお金をイギリスやフランスに貸していたんですね。負けてもらっては困るし、出来れば余力があるうちに勝ってもらって借金は返済して頂きたい。というわけでアメリカのウィルソン大統領は、ドイツに宣戦布告。海軍、空軍を派遣していきます。
一方、ロシアでは戦争に疲弊し、しかも怪僧ラスプーチンによる怪しげな政治が行われている状況に対して革命が起きます。これによって、ニコライ2世のロマノフ王朝は倒れ、さらに社会主義者のレーニン率いるボリシェヴィキと呼ばれるグループが臨時政府を打倒。1917年11月7日、世界初の社会主義国家が誕生しました。いわゆる、ソヴィエト連邦の成立です。そして、ドイツと講和し戦線から離脱しました。この時結ばれたのがブレスト・リトフスク条約ですが、ドイツに追いつめられていたソヴィエト政府にとって、大幅にドイツに譲歩した内容でした。
○ようやく終結へ
さあ、東のことは考えなくて西部戦線に集中できるぞ・・・と意気込んだドイツ軍でしたが、元気満タンなアメリカ軍の参戦、さらに国内では深刻な食糧不足、反戦の盛り上がり、さらにお膝元のキールという軍港で、即時講和を求める水兵が暴動を起こすなど混乱状態に陥りました。これを見たヴィルヘルム2世はオランダへと亡命し、ドイツ帝国は崩壊。そして1918年11月11日、休戦条約が結ばれて、ようやく大戦は終結したのです。
戦争の長期化は、多くの人命が失われ、都市が破壊され、さらに兵士だけでなく一般の人達も何らかの形で戦争に協力することになる総力戦体制を招きました。さらに、インドなど植民地の人々も兵士として徴募され、ヨーロッパ中で戦わされます。もっとも、これは「我々も協力したんだ。見返りを!」と植民地の人々に力を与え、後の独立へとつながっていきます。
また、この中でイギリスはユダヤ人の経済的協力を欲していました。
そのためイギリスの外務大臣バルフォア(政権はロイド=ジョージ内閣に移行)は、ユダヤ発祥の地、パレスティナにユダヤ人国家を建設するという、バルフォア宣言を出します。ところがアラブ人たちに対しては、ドイツ陣営だったオスマン=トルコ帝国に対する攻撃を支援してもらうため、現在のサウジアラビアにある、メッカの有力カリフ、フサイン、ファイサル親子らに「この地域にアラブ人国家を建設してあげよう。その代わりイギリスに協力してくれたまえ」という、フサイン・マクマホン書簡も送っていたんですね。そして、両方ともイギリスに協力し、勝利。
さあ、パレスティナはどちらの物か。
この二枚舌外交は、今のパレスティナ問題につながっていきます。
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