61回 ヴァイマル共和国と世界恐慌
○勝っても負けても大変だ
さあ、いよいよ第2次世界大戦への足音が聞こえて参りました。ドイツを中心に見ながら、いよいよその前夜まで解説していきたいと思います。
さて、1918年秋、戦争継続を主張するドイツ帝国は労働者、一部軍人の蜂起によって崩壊し、国王ヴィルヘルム2世は亡命。共和政国家へと移行します・・・と、そこで「今こそチャンス到来!」と立ちがあったのがドイツ共産党。1919年1月、革命を起こそうと立ち上がりますが、これを鎮圧したのが政権を掌握した社会民主党と、軍部でした。
そして同年、ヴァイマルの地で国民議会が開催され、社会民主党のエーベルト(1871〜任1919〜25年、没年も25年)が大統領に就任。そして中央党、人民党と連立内閣を組織し、民主的なヴァイマル憲法を制定し、ヴァイマル共和国とも呼ばれるようになります。ところが、そんな国家の船出は、いきなり多額の賠償金という重荷を背負うことになります。また、国民の中には「まだ戦えたはずだ!」と政府を批判する者も多く、厳しい国家運営が迫られます。おまけに、物価が高騰するインフレーションが激しく、人々の暮らしは大幅に悪化します。
そこで首相に就任したシュトレーゼマン(1878〜任1923 没年1929年)は、僅か1年の首相在任でしたが、新紙幣であるレンテンマルクを発行して、インフレを収束。さらに彼は外務大臣になると、アメリカの支援で、賠償金負担を軽減するドーズ案を自国、イギリス、フランスに受け入れてもらいます。
これは、アメリカの銀行家チャールズ・ドーズらがまとめた案で、
1.ドイツは国有鉄道や工業施設を担保として、アメリカを中心とする外国からの借入金を導入
2.これをもとに、ドイツは経済を立て直す
3.そして、ドイツはゆっくりとイギリス、フランスに賠償金を返済していく
4.イギリス、フランスはそれをもとに、大戦中にアメリカから借りたお金を返す
5.これによって、みんなの賠償金、借金が無くなり世界経済は安定する
というものでした。
また、フランスとベルギーは占領していたルール地方から撤退します。さらに、1929年、賠償金をさらに減額するヤング案も提出され、これの交渉中にシュトレーゼマンは亡くなるのですが、ともあれドイツも一息つけるか・・・と、そこで思いがけない事態が起こりました、それは世界恐慌と呼ばれる出来事でした。
○恐るべし、世界恐慌!
1929年3月、アメリカでフーバーが大統領に就任する頃から株価が急騰します。人々は、乗り遅れてはいかん、と必死に株を買います。家も抵当に入れて、どんどん株を買っていきます。(注:抵当というのは借金する時、借金を払えなかったら、お金を貸してくれた人に譲り渡すけど、でも質と違って譲り渡すまでは使えるということ。)が、しかし、だが!
すべてがバーンとはじけます。10月24日(暗黒の木曜日)、今度はみんな一斉に株を売り始めちゃったもんですから、株価は大暴落。みんな一気にお金を失いました。考えてみれば変な話です。現金自体は、出回っている量は同じはずなんですけどね。そこが、株の怖いところ。その後4年間で、4500社以上の銀行が倒産し、工業生産は50%減、1933年には失業者が1300万人に。
○イギリス、フランスはこうなった
当時のイギリスは、21歳以上の青年男女全てに選挙権が与えられた第5次選挙法改正、自由党の内部分裂、ラムゼイ・マクドナルド(1866〜1937年)率いる労働党の躍進と政権獲得等を経て、1929年当時は第2次マクドナルド内閣が政権を担当。さあ、労働者の味方である労働党が、どのような不況対策を施すのか。・・・何とマクドナルド首相、国家財政を立て直すのが優先として、失業保険の削減から手をつけます。
これには「おい、ふざけんな」と、お膝元の与党・労働党が反対し、なんと党首、首相であるマクドナルドを除名。ところが、その日のうちに国王ジョージ5世直々に、保守党、自由党と連立内閣を作って首相になったらどうだと要請され、マクドナルドは首相の座に留まります。
そして彼は、金本位制の停止、財政削減を実施し、さらに国内産業を保護するため、1932年にオタワ連邦会議を主宰。この中で、世界各地にあるイギリス連邦の各自治領間では貿易時の関税を下げ、一方で他の地域と貿易する時には高い関税を課す、いわゆるブロック経済政策を実施し、景気の回復を狙います。
ちなみに、フランスは不況の到来が遅く、1932年頃に兆候が現れます。
そうなると選挙で当時の右派連立内閣は敗北し、政治は混乱。これを制したのが、なんと社会党、急進社会党で1936年から38年にかけて、レオン・ブルム(1872〜1950年)を首相とする人民戦線内閣が成立しています。なお、人民戦線というのは共産党を含めた左翼勢力が連合することを指します。
○スペインの場合
スペインについては、しばらく触れていませんでしたので、少々前から触れましょう。第一次世界大戦で中立だったスペインは国土は荒廃せず、戦時中は好景気に沸きますが、反動で戦後は不況になります。そして1923年には国王のアルフォンソ13世の支持の元に、プリモ・デ・リベラ将軍(1870〜1930年)がクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立。公共事業などを起こして国民の支持を集めますが、次第に政策に行き詰まり、景気は悪化。
王制への批判にもつながり、反体制派の台頭もあってリベラは辞任し、フランスへ亡命。間もなく死去します。さらに翌年の統一地方選挙で共和派が勝利を収めると、国王アルフォンソ13世もフランスへ亡命。王制は崩壊し、新憲法が制定されて、サモラ大統領&アサーニャ首相の体制が発足します。
この政権は左派の諸政党から成る連立政権で、カタルーニャ地方の自治憲章の制定、農地改革など、教会の権限縮小を推進しますが、非常に利害関係や思想の対立を巻き起こす問題で、1933年の総選挙で右派連合に敗北。政権交代により、また政治は逆方向に転換されます。
すると今度は、1936年の総選挙で左派勢力が結集した人民戦線が勝利し、アサーニャが首相として復帰。しかし国内では労働者によるストライキの恒常化、さらには7月に軍の反乱などが発生。そしてスペインは内戦に突入し、人民戦線側はソ連が、反乱軍側はドイツ、イタリアが支援して、左右のイデオロギー的な対立にも繋がります。
そして反乱軍側はフランシスコ・フランコ(1892〜1975年)をリーダーとして攻勢を強め、人民戦線側は様々な立場が集まった雑多な勢力で統率力に欠けることもあり、敗退。1939年に人民戦線政府は崩壊し、フランコをリーダーとする独裁国家が成立しました。
さて、このフランコを支援したドイツ。この当時のリーダーは、あのヒトラーです。果たして、どのようにしてヒトラーが政権を握り、第二次世界大戦へと突入することになるのか、次回以降で見て行きましょう。
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