第62回 ヒトラーの政権掌握

○ヒトラー登場!!

 さて、アメリカが不況に陥ると、外国に構っている余裕が無くなります。当然、ドイツに投資していた企業は撤退し、ドイツ経済は深刻な不況に陥ります。そこで人気を拡大していったのが、アドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)率いる国家社会主義ドイツ労働者党。政敵からは、ナチスと呼ばれる政党でした。

 大恐慌によって多くの失業者が出ると、政府に対して批判の声が高まります。それを見たヒンデンブルク大統領らは「さて、そろそろ議会主義とはおさらばする時だな」と考え、1932年、なんと議会を無視して大統領独裁の内閣を成立させます。パーペン超反動内閣と呼ばれるもので、閣僚の中には国会議員はゼロ、貴族が5人もいるという有様で、社会民主党からは男爵内閣と批判されますが、お構いなし。

 これに対して、急速に勢力を拡大したのがヒトラー一派でした。これを通称である、ナチスとここでも呼称しましょう。
 ヒトラーの生い立ちやエピソードについては、世界史レポート第4回で見て頂くとしまして、議会無視をとり続けていたヒンデンブルク大統領政権ですが、無視できない事態が起こりました。

 それは、ドイツ民族の優秀性を強調し、ヴェルサイユ条約を打破しろと主張し、ユダヤ人を排斥しろ!と過激なことを言うナチスは、最初こそバカにされましたが、不況になると希望の星のような扱いになり、1932年の選挙で第1党になってしまったことです。これは、一時的に共産党が躍進し、これをナチスが「危険なことである」と盛んにアピールしたのも一因です。

 やむを得ずパーペン首相は解任され、議会の選挙結果を重視し、ヒトラーを首相に任命しました。
 ヒトラーは、折しも国会議事堂に放火があったことから、これを共産党の仕業であるとして弾圧。さらにナチス以外の政党を解散させ、労働組合を禁止し、出版・言論の自由も認めないことにしました。そして秘密警察(ゲシュタボ)、親衛隊(SS)、突撃隊(SA)を駆使して、反対派をビシバシ取り締まり、独裁体制を造り上げていったのです。

 そして1934年、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは総統に就任。
 国内の不満を解消するためには景気対策が一番ですから、アウトバーン(高速道路)をはじめとする、大規模な土木事業や軍需産業のテコ入れをはかり、失業者を急速に解消しました。これによって国民から拍手喝采・・・ていうか、反対派は捕まって強制収容所に送られ、処刑、なんですけどね。

○アインシュタインの亡命

 危機感を覚えた人々、特にナチスが目の敵にしたユダヤ人、社会主義者、民主主義者は外国へと亡命。この中には、相対性理論等で有名な物理学者、アインシュタイン(1879〜1955年)もいます。彼はアメリカへ亡命し、他の物理学者と共にドイツによる原爆開発の危険性を訴え、アメリカによる原爆研究を勧める手紙をフランクリン=ルーズベルト大統領に送付。

 これが大きなの契機となり、アメリカは急速に核兵器の開発を推進。
 そして、これが日本に2発も投下されることになりますが、驚いたアインシュタインは戦後、世界政府の樹立による世界平和、核兵器廃絶と戦争廃止を亡くなるまで強く訴え続けていきます。

○ドイツの再軍備

 さて話をドイツに戻しまして、国内をまとめたヒトラーは軍事的な野心を燃やし、1933年に国際連盟を脱退。1935年には義務兵役制を復活し、再軍備を宣言。この段階では未だ、ヒトラーの危険性は諸国には浸透しておらず、イギリスはドイツと海軍協定を結び、ドイツはイギリスの35%の海軍力保有が認められました。

 さらに1935年には仏ソ相互援助条約が調印されたことから、「ドイツが挟撃される!」と反発。その翌年、国境線を取り決めたロカルノ条約を破棄して、非武装地帯とされていたドイツ西部のラインラントに軍を進駐。1936年には、前述のスペインのフランコに対して軍事的支援を開始し、またイタリアのムッソリーニとベルリン・ローマ枢軸(すうじく)協定を締結。そして1937年には日本、イタリアと日独伊防共協定を締結しました。

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