3回 1945年〜54年(3):中華人民共和国の誕生と東南アジア

○はじめに

 続いて東アジア情勢について見ていきます。日本については、日本史で詳しく扱っていますので、そちらでご覧下さい。

○中国大陸は共産党が勝利を収める

 第2次世界大戦前までは欧米各国と不平等条約を結ばされていた中国でしたが、第2次世界大戦において日本による中国侵攻に対し欧米の支援によって戦争を行うにつれ、反枢軸国として国際的な地位が上昇。国際連合が発足すると、常任理事国となります。

 ところが国内では蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が、日本という共通の敵を失い、対立します。共産党は農村部に浸透し支持を広める一方で、国民党が基盤とする都市部では経済のインフレ、政治の腐敗が表面化し、国民の不満が高まります。こうした中で、国共内戦が始まり、国民党に対してはアメリカが武器の供与で支援を行います。

 最初は優勢だった国民党軍でしたが、1947年後半になると共産党勢力に勢力が逆転。そして1949年初めには、共産党率いる人民解放軍が首都の北京を占領し、10月1日に毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言。一方、蒋介石は台湾に移り政権を樹立し、大陸反抗を訴えます。

 中華人民共和国は、毛沢東を主席、周恩来を首相とする一党独裁政権で、西側陣営にとっては大きな痛手でした。当然、毛沢東はソ連との関係を重視し、1950年には中ソ友好同盟条約を結びます。そして、中国はソ連の援助によって経済的な復興が始まり、殆ど全ての企業や工場が国有化。1953年には第1次五カ年計画が策定されました。

 また、1951年に日本は西側各国とサンフランシスコ講和条約を結びましたが、アメリカは中国の参加を拒否。中国の封じ込めを図ります。一方で日本と台湾は日華平和条約を結び、日中戦争の終結を認めましたが、中国はこれを認めませんでした。

○中国によるチベット侵攻

 こうして誕生した中華人民共和国は、成立の翌年である1950年に早速、チベットに対して「解放」の名のもとに侵略を開始しました。チベットは清が崩壊したのちに独自の政府を持っていましたが、新たな中国はこれを認めず、1950年10月に人民解放軍を侵攻させ、翌年にチベットを併合しています。

 チベット侵攻によって多くのチベット人が命を落とし、これ以後もチベットの人たちは抵抗していきますが、中国は力でこれを押さえつけ、今に至るまでその姿勢は変わっていません。チベットの指導者であるダライ・ラマ14世(1935年〜 )らは1959年にインドに亡命し、チベット亡命政府として今も活動を続けています。

○朝鮮戦争の勃発

 そのお隣である朝鮮半島では、日本の支配が終わりを迎えると、北緯38度線を境に北はソ連軍、南はアメリカ軍が進駐します。当初は米・英・ソ・中4カ国による信託統治が想定されていましたが、アメリカとソ連の対立が深まり、この話はご破算。

 そして1948年5月、アメリカは南側だけで選挙を実施しします。この結果、、李承晩(イ・スンマン)派が圧勝し、8月に彼を大統領とする大韓民国が成立します。李承晩(1875〜1965年)は朝鮮王家の遠戚で、日本敗戦後に帰国すると右派勢力をまとめて独立促成中央協議会を組織。大統領に就任すると、独裁体制をひきます。

 一方、朝鮮半島北部では1948年9月に金日成キム・イルソン 1912〜94年)を首相とし、朝鮮労働党による独裁国家である朝鮮民主主義人民共和国(いわゆる北朝鮮)が建国されます。金日成は本名を金成柱(キム・ソンジュ)といい、南満洲(中国東北部)で育ち、中国共産党に入党。さらに抗日パルチザン活動を経て、ソ連軍特殊工作隊の青年幹部として訓練を受け、日本の降伏に伴い、ソ連から送り込まれたのでした。

 そして1950(昭和50)年6月25日、ついに北朝鮮の朝鮮人民軍は38度線を突破して南部へ侵攻。これに対し、アメリカのトルーマン大統領の働きかけで、国連安全保障理事会は北朝鮮非難決議を採択、27日には国連加盟諸国に対し韓国への軍事支援を勧告します。
 ちなみにソ連は、国連の中国代表権を台湾の中華民国にするか、大陸の中華人民共和国にするか、扱いを巡って会議をボイコットしていました。当時は、まだ中華民国に国連の中国代表権がありまして・・・。

 そして朝鮮半島では、なんと6月28日にソウルが北朝鮮によって陥落。これに対し、7月1日に在日米軍が韓国南部の釜山に上陸して反抗を開始します。

 さらに7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定し、ダグラス・マッカーサー(1880〜1964年)を国連軍総司令官に任命。米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成されました。しかし8月下旬、韓国は釜山や大邱の一角にまで追い込まれるという事態に。これに対しマッカーサーは、ソウルの西にある仁川(インチョン)から軍を上陸させ、北朝鮮軍を挟撃。9月15日、ソウルの奪還に成功しました。



仁川上陸作戦の様子(模型)
 パワーバランスは逆転し、19日は北朝鮮の首都である平壌を国連軍が占領。マッカーサーはトルーマン大統領の「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」と言う命令を無視して、北上を続けます。そして、次第に北朝鮮を追い詰めた・・・かに見えました。

 ところが、毛沢東率いる中国が北朝鮮側に立って参戦し、戦いは再び泥沼化し、一時はソウルも再び北朝鮮の手に落ちました。その後、戦いは一進一退に陥り、マッカーサーは中国への空爆、核攻撃を進言します。

 これにはトルーマン大統領は「ソ連の参戦を招きかねない」として反対し、マッカーサーは解任され、連合国最高司令官として赴任していた日本からも去ることになります。後任はマシュー・リッジウェイ大将(1895〜1993年)でした。



M4A3シャーマン戦車
朝鮮戦争で使用されたアメリカの戦車で、M4中戦車(通称「シャーマン」)のバリエーションの1つ。

RF−86−F セイバー
 アメリカの戦闘機(写真は偵察型)。F−86は朝鮮戦争では中国のMiG-15(ミグ15)相手に、史上初の後退翼ジェット戦闘機同士の空中戦を展開して圧倒的な強さを発揮しました。
 結局、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案。紆余曲折の末、7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれて、現在も停戦中・・・というわけです。

 さて、この朝鮮戦争において重要な役割を果たしたのが日本でした。日本の産業界は、朝鮮戦争関連の物資生産の拠点となり、特需と呼ばれる好景気になりました。それまで、戦後の長い不況に苦しんでいた日本は、ようやく経済の建て直しに光が見えてきたのです。

○イギリスから独立したインド、パキスタン

 イギリスの植民地となっていた、現在のインドやパキスタン、バングラディッシュ。
 19世紀後半、イギリス政府は現地の人たちの不満の矛先がイギリスに向かわないよう、イギリスに協力する現地の知識人や中産階級による組織を作ることを考えます。こうして、イギリス政府公認で1885年12月にインド国民会議が発足します。一方、この組織はヒンズー教寄りだ!と考えたイスラム教徒の人たちは、別組織の結成を企画します。

 そしてイギリス政府公認で、1906年12月にインド・ムスリム連盟が誕生し、こちらはイスラム教徒が多く参加します。どちらの組織もイギリスの息がかかっているので、最初はイギリス万歳!の組織だったのですが、民族意識の高まりと共に、次第にイギリスの思惑を外れて、イギリスからの独立を主張していきます。

 こうした中、断食を武器に、非暴力・不服従運動を指導したマハトマ・ガンディー(1869〜1948年)によって独立運動が全土に広がります。ガンディーは相手の良心に訴えかけ、あくまでイギリス軍相手に力による抵抗はしない一方、弾圧を受けても決して引くことはしませんでした。さすがのイギリス軍も、これには手を出しづらかったようです。

 こうした運動は功を奏し、1935年にイギリスはインドの自治を認める新インド統治法を定めますが、しかし、第2次世界大戦が始まるとインド国民会議派は完全な独立を要求。イギリスは弾圧の姿勢を出すものの、本国が戦争で疲弊する中で余力は無く、大戦終了後にインドから手を引くことにします。

 しかし、インドはヒンドゥー教徒の多い地域とイスラム教徒の多い地域に別れており、インド統一を主張するガンディーらの国民会議派と、イスラム国家の建設を主張するムハンマド・アリー・ジンナー(1876〜1948年)率いる全インド・ムスリム連盟が対立。武力衝突も起こります。


 1947年8月15日、インド独立法により、インドは独立を果たしますが、ヒンドゥー教徒の多いインド(首相:ジャワハルラール・ネルー)と、イスラム教徒の多いパキスタン(総督:ジンナー)に分離しました。当時はバングラディッシュも東パキスタンとして、パキスタンの一部でした。

 しかし、これはガンディーが目指したインドではありませんでした。彼は1つのインドを目指して、そして宗教的な対立は防ごうと断食による抗議をするなど、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対話の道を模索します。

 しかし身内であるヒンドゥー教徒の原理主義者から「イスラム教徒に譲歩しすぎる」と敵視され、1948年1月30日に狂信的なヒンドゥー教徒によって暗殺されてしまいました。

 ちなみに、1947年の独立はイギリス自治領としてのもので、インドは1950年1月26日に新憲法を発布し、インド共和国として主権国家となります(ただし、イギリス連邦には止まります)。

○分離に伴う悲劇

 ところで、インドとパキスタンの分離ですが、これが大変な悲劇を生みます。何しろ、ヒンドゥー教徒の居住地域、イスラム教徒の居住地域が当時から明確に分けられていたわけではないので、新たな国境線は地図上で思い切った形で引かれたものでした。このため、何と1200万人から1500万人とも云われる数の人々が、国境線を越えて大量移動。

 今のように自動車で楽に移動するわけではなく、わずかな食料、少ない手荷物で延々と新たな居住地へ歩いて移動する上に、あたり一面人だらけ。こうして殺気立った移動の中で、宗教的な対立の憎しみも加わって暴動があちこちで発生し、何と100万人近い人が亡くなったと言われています。

 さらにイギリス統治時代に藩王国として保護されてきた、500以上の小国家群の処理も難題でした。

 この藩王国の処理を巡って対立の元になったのが、カシミール地方でした。藩王がヒンドゥー教徒、住民の大部分がイスラム教徒であり、インド、パキスタン共に主権を譲りませんでした。このため、1947年10月にパキスタン軍がカシミール地方に侵入。インド軍との先端が開かれました。これを、第1次インド・パキスタン戦争といいます。

 この結果、1949年1月に国連の調停によって、カシミール地方の3分の2をインド、3分の1をパキスタンにわける形で停戦ラインが引かれ、とりあえずの紛争は終結しました。しかし、「第1次」という表現で解るとおり、その後も紛争は続いていきます。
(地図:外務省ホームページより)


ネルーの胸像 (シンガポールにて)

○ネルー首相の外交

 さて、ネルー首相はアメリカやソ連とは独自の外交政策を目指し、非同盟中立政策を打ち出します。反植民地主義、民族自決を基本方針とし、サンフランシスコ講和会議への欠席や、1954年にインド、パキスタン、インドネシア、スリランカ、ミャンマーと会談し、アジア・アフリカ諸国会議の開催と、核実験禁止を提案。

 さらに同じ年に、中国の周恩来首相と共に平和五原則を発表します。これは、領土の主権の尊重、領土の不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存を柱とするものです。
 
 そして1955年4月にインドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議の開催を実現し、29カ国の団結の基礎をつくり、いわゆる第三世界の形成に尽力しました。

○アメリカから独立したフィリピン


 第2次世界大戦中に日本に占領されていた東南アジア諸国は、日本が撤退すると、以前の宗主国からの独立を目指します。また、ソ連の指導者レーニンの呼びかけによって各地で共産党が誕生し、宗主国に抵抗するようになります。しかし、全ての国がすんなりと独立できたわけではありませんでした。

 その中でもフィリピンの独立は比較的スムーズに進みます。アメリカの植民地であったフィリピンは1920年代から各地で反乱が起き、この状況にアメリカ国内でフィリピン領有に対する批判が起こります。

 そこでフランクリン・ルーズヴェルト大統領時代の1934年、アメリカはフィリピン独立法(タイディングス・マクダフィー法)を成立させ、10年後のフィリピン独立を定め、国家づくりが進められてきました。

 ところが日本軍の侵攻と占領によって独立は延期され、フィリピンはアメリカと共に抗戦。そして日本は撤退し、1946年7月4に独立宣言を出してロハスを大統領とするフィリピン共和国として独立が実現しました。

 独立後もアメリカの影響を強く受ける一方、国内ではフクバラハップと呼ばれる共産党系の勢力が政府に抵抗し、一時は政府転覆間近までの勢力を拡大。もっとも、1954年に指導者のタルクが政府に降伏し、勢力は大きく衰退しました。

○オランダからの独立闘争を繰り広げたインドネシア


 オランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)では、1927年にスカルノ(1901〜1970年)を中心に結成されたインドネシア国民党が独立運動を展開します。これに対してオランダ政府は弾圧を行い、スカルノらは逮捕。第2次世界大戦でオランダ本国がドイツに占領されても、イギリスに亡命したオランダ政府はインドネシアの独立を認めませんでした。

 しかし1942年に日本が侵攻しオランダ軍を撃退。第16軍司令官の今村均は現地を重視した軍政を敷き、スカルノらを釈放させて日本に協力させる代わりに、インドネシアの独立に向けた国家体制づくりに協力します。

 ところが日本が1945年8月15日に降伏して撤退しため、同年8月17日にスカルノらは、スカルノを大統領、ハッタを副大統領とするインドネシア共和国の発足を宣言し、オランダに対して先手を打ちました。そして、1946年11月に、インドネシアとオランダはリンガルジャティ協定を結んで、インドネシアの事実上の独立が認められました・・・が。

 1947年7月、オランダは「インドネシアは協定に違反している」として侵攻を開始。これに対しインドネシアは、既に日本統治下で準備していた軍隊や住民、旧日本兵による抵抗によってオランダと戦いを繰り広げます。

 一方で外交的な解決も模索され、国連の仲介で停戦ラインも引かれますが、オランダはこれを破って1948年12月に首都ジョクジャカルタを攻略して、スカルノ大統領、ハッタ副大統領らら指導者たちを「流刑」に処します。しかし、これは国際社会の批難を浴び、インドネシア側の抵抗も強く、1949年8月末から4カ月にわたって開催されたハーグ円卓会議で、オランダはインドネシアの独立を正式に認めることになりました。

 結局、オランダはアメリカから復興のために受け取ったマーシャル・プランの資金約4億ドルと同額を戦争に投じる結果となりました。なんともったいない・・・。

 こうして本格的に独立を果たしたインドネシアでしたが、地図を見ていただければわかりますが、島だらけ。そこには様々な民族や宗教があります。この国家を1つにまとめるのは大変な話で、西ジャワとアチェでイスラム教徒による反乱が起きるなど、順風満々な船出とはなりませんでした。スカルノは議会制民主主義を基本としながらも、大統領に強力な権力を集め、また勢力を拡大する軍をインドネシア共産党に牽制させるなどして、自らの政治基盤の保全を図っていきます。

○苦難の歴史を歩むフランス領インドシナ地域

 第2次世界大戦前、現在のベトナム、カンボジア、ラオスはフランス領インドシナとしてフランスが植民地にしていました。この地域はベトナム南部と主要都市の一部などをフランスが直接支配していたほか、ベトナムの王朝である阮(グエン)朝カンボジア王国、ラオス北部のルアンパバーン王国と、ラオス南部のチャンパーサック王国はフランスの保護国として存続を許されていました。

 そして第2次世界大戦が勃発し、フランス本国がドイツに征服されると、ドイツの強い影響下でフランスに誕生させたヴィシー政府がインドシナの統治を続けますが、水面下で現地の人たちによる独立の動きが進行していました。これに拍車をかけたのが、日本軍がやってきたことでした。日本とドイツは同盟していましたので、ヴィシー政権は日本軍の進駐を認めざるを得なかったのですが、1945年になるとアメリカ、イギリスなど連合国側の反撃によってフランスのヴィシー政権が崩壊。

 日本としては、フランス領インドシナ地域が連合国側になってしまうと困ります。そこで、武力でインドシナ地域からフランス勢力を排除し、日本の影響下でベトナムでは阮(グエン)朝の保大帝バオ・ダイ帝/1913〜1997年)にベトナム帝国の独立を宣言させ、続いてカンボジア王国のノロドム・シハヌーク国王(1922年〜)、ルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王も独立を宣言しました。

 しかし、これで目出度し目出度し・・・とはなりません。まず、ベトナムから見ていきましょう。

○長い戦争に突入するベトナム


 フランス領インドシナ(現在のベトナム)では、日本が進駐すると、ホー・チ・ミン(1890〜1969年)がベトナム独立同盟(ベトミン)を組織し、フランスと日本に対して抵抗していました。ベトナム帝国にも反対を続け、日本が1945年8月に連合国降伏すると、直ぐにベトナム全土で蜂起し(8月革命)、バオ=ダイ帝を退位させて、9月2日にはハノイでホー・チ・ミンを主席とするベトナム民主共和国の建国を宣言します。
(地図:外務省ホームページより 一部加工)

 しかしインドシナに戻ってきたフランスは、この動きを認めませんでした。

 外交的な交渉も模索されますが、ついに1946年12月19日から本格的な交戦状態に入ります(第一次インドシナ戦争)。そして1949年6月、フランスはバオ=ダイを担ぎ出し、彼を元首とするベトナム国(首都:サイゴン)を発足させ、フランスの傀儡国家としてベトミンに対抗。アメリカの間接的な軍事支援を受けて、1947年2月にはハノイ、フエなどベトナム北部の主要都市を陥落させます。


ホー・チ・ミンの胸像 (シンガポールにて)
 これに対してベトミンは山岳ゲリラ戦を展開してフランスに対抗し、さらに中華人民共和国の支援を獲得。そして1954年5月、ベトミン軍が北西部山岳地帯のディエンビエンフーのフランス軍要塞(ようさい)を陥落させると、フランス国内から「いい加減に戦争をやめろ!」と声が挙がり、1954年7月21日にフランスとベトミンの間にジュネーブ休戦協定が結ばれました。

 こうしてフランスはインドシナ半島から撤退しますが、北緯17度線を境に北半分がベトナム民主共和国(北ベトナム)、南半分がベトナム国(南ベトナム)に分割され、南北が分離することになり、2年後に再統一のための選挙が行われることになりました。

 ところが、ベトナム国ではバオ=ダイがゴ・ディン・ジェム首相による国民投票で退位させられ、1955年10月にはゴ・ディン・ジェムを大統領とするベトナム共和国が発足。ゴ・ディン・ジェム大統領はアメリカの援助を受け、南北統一のための選挙を拒否し、南北の対立は深まり、ベトナム戦争へとつながっていきます。

○ラオスとカンボジア

 一方でベトナムと同じくフランスの植民地であったラオスとカンボジアは、どのように独立したのでしょうか。


 まずラオスは、日本によってフランス勢力が撃退されたことからルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王が独立を宣言しますが、日本軍の撤退により独立宣言を撤回しました。これに失望した民族主義者たちは、ラオ・イサラ(自由ラオス)を結成して臨時政府を樹立しますが、再びやってきたフランスによってタイへの亡命を余儀なくされました。

 そして1950年、フランスはルアンパバーン朝とチャンパーサック王国を統合させ、ラオス王国を発足。シーサワーンウォン国王を統一ラオスの国王として担ぎ出し、限定的な自治権を与えてフランスの影響下に置きました。1949年には一応の独立をさせています。

 結局、1953年に正式に独立を達成。そして、1954年のジュネーブ協定の中で、フランス軍はラオスから撤退します。しかしその後アメリカとソ連の思惑も絡み、右派と左派(共産主義勢力)に分かれて抗争が勃発し、のちにはベトナム戦争にも巻き込まれて内戦が激化します。結局、1975年に左派勢力が勝利し、ラオス人民民主共和国が成立。シーサワーンウォン国王は捕えられて没し、ラオス王国は崩壊しました。王国については、難を逃れた王族によって、現在もフランスでラオス王国亡命政府として活動を続けています。


 一方、カンボジアではシハヌーク国王による独立宣言がフランスの再占領によって消滅しますが、粘り強い交渉の末に1953年に完全独立を達成しています。そして驚くことに1955年には国王を退位し、王位を父に譲り「社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)」を結成して政治家に転身。

 王よりも政治的・法的な束縛が少なく政治運営が出来る!と考えたようです。そして国民の支持を受けて首相と外務大臣に就任します。

 ・・・と、ここまでは順風に見えているカンボジアでしたが、こののちに大変な歴史を歩むことになります。

○タイとミャンマー

 タイ王国は東南アジアの中では例外的に独立を保っていた国家で、第2次世界大戦が勃発するとプレーク・ピブーンソンクラーム首相(名前が長いのでピブーン首相と略することも)は日本に味方し、アメリカ、イギリスに宣戦布告。しかし、1944年7月に内閣総辞職すると、タイは宣戦布告を取り消しました。


 戦後は国際連合への加盟を果たす一方、国内では1947年11月にピブーンがクーデターを起こして政権を掌握。この政権は1957年9月にサリット元帥による軍事クーデターで崩壊するまで続きます。他の東南アジア諸国が多くの血を流す中で、タイは比較的平和ではありましたが、政権はその後も安定していません。

 一方、イギリスの植民地だったミャンマー(当時はビルマ)は大戦中に日本が占領。これに対し、1944年にアウンサン(1915〜47年)らは、ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成して日本の支配に抵抗し、戦争終結後はイギリスと交渉の末に独立を認めさせます。

 残念ながらビルマの正式な独立を前にアウンサンは暗殺されてしまいますが、1948年1月にビルマ連邦が誕生しました。ちなみに、現在のミャンマー民主化運動の象徴的存在となっているアウンサン・スーチーさんは、アウンサンの長女です。

○マラヤ連邦の誕生


 最後に、現在のマレーシアやシンガポール、ブルネイについてみていきましょう。
 と言っても現在の姿になるのは、このページで扱っている時代以降になるのですが、第2次世界大戦前はブルネイ王国を除いてイギリスの植民地、もしくは保護国でした。

 特に現在のマレーシアのサラワク州は、1841年にブルネイ王に対して反乱の鎮圧に協力したジェームズ・ブルックというイギリス人の探検家が、ブルネイ王より与えられてサラワク王国を作ったという場所。・・・しかもその後、ブルネイから土地を次々と奪っていくという。そのブルネイも、実質的にイギリスの保護下に入ります。

 第2次世界大戦中にこのエリアは日本軍が進駐し、日本降伏後は戦後の統治について模索されますが、これが簡単にいく話ではありませんでした。というのも、イギリスは植民地統治にあたって、スズ採掘やゴム園労働者として中国人とインド人の移民を奨励しており、現地人であるマレー人との民族問題が発生していました。

 1946年、イギリスはマレー半島側(地図上で西側、シンガポールは除く)についてはマラヤ連合として再編。しかし、マレー人は特権が認められないことに抵抗。結局、1948年にマレー人に特権を認めた自治政府マラヤ連邦が発足しました。その他の地域は、まだしばらくイギリス領のままとされるなど、現在の形になるのはまだ先のことです。

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