2回 1945年〜54年(2):東西分裂するヨーロッパ
○はじめに
このページでは、ヨーロッパについて見ていきましょう。第2次世界大戦の主戦場となったヨーロッパは、荒廃した国土の復興が進められる一方、アメリカ陣営、ソ連陣営に別れ、次第に東西分裂の様相を見せていきます。○分割統治されるドイツ
1945年8月、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦はポツダム協定を結び、フランスを含めた4カ国でドイツを分割占領し、首都ベルリンも分割して管理し、民主化を進めていくことを決定。また、ドイツ中南部のニュルンベルクに国際軍事裁判所を設置し、ナチス=ドイツ関係者に対する軍事裁判を行い、戦争犯罪の追求が始まります。ニュルンベルク裁判の裁判基準は、
(1) .侵略戦争などの共謀への参加
(2) 平和に対する罪
(3) .戦争犯罪
(4) 非人道的犯罪
の観点であり、最終的に22名が裁かれ、ヘルマン・ゲーリング(ドイツ空軍総司令官)ら12名が死刑、ルドルフ・ヘス副総統らが終身刑となりました。
一方、ドイツに占領されていたオーストリアも4カ国による共同管理。旧枢軸国のイタリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、フィンランドは1947年2月に連合国とパリ講和条約が結ばれ、例えばイタリアは海外領土を放棄することになったほか、ルーマニアはソ連に対する賠償と軍備の制限などが取り決められました。
○イタリア情勢
イタリアでは1946年6月に、初めて女性も参加して国民投票が実施され、王政が廃止。共和制へと移行します。その直前に国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869〜1947年)は、息子のウンベルト2世(1904〜1983年)に譲位していましたが、それまでムッソリーニらを支持していたことから国民の反発は強く、譲位ぐらいでは王政廃止の流れは変えられず、エマヌエーレ3世はエジプトへ、ウンベルト2世はポルトガルへと亡命したのでした。
そして1947年7月、パリでイギリス、フランス、アメリカ、ソ連との講和条約が調印され、トリエステの国際管理化、植民地の放棄、ソ連への賠償金の支払い、軍備の制限などが決定。連合国軍はイギリスから撤退したのでした。
○フランスの動き
第2次世界大戦中、実質的にドイツに占領されたフランスを解放すべく中心的な役割を担ったのが、シャルル・ド・ゴール将軍(1890〜1970年)でした。彼は1945年8月26日にパリに帰還し、国民議会で臨時政府首相に選出されました。しかし、新憲法の制定に際して、彼が主張した強力な行政権は承認されず、首相を辞任。そして1946年10月に国民投票で新憲法が制定され、第4共和制がスタートしました。
ブルボン宮殿(フランス国民議会議事堂)
マーシャル・プランの資金によって戦後復興が進められていくと共に、フランスは各地の植民地を次第に手放していくことになりますが、当初はフランスはこの動きに抵抗します。例えば、1946年〜1954年にかけてヴェトナムでホー=チ=ミン率いるヴェトナム民主共和国と戦争を行い、独立を認めようとしませんでした。
結局、1954年に大敗したことから、ジュネーブ休戦協定を結んでフランスは手を引きますが、この間にフランスがヴェトナム南部に樹立したヴェトナム国VSヴェトナム民主共和国の対立は、ヴェトナム戦争へと繋がっていきます。
○東ヨーロッパ情勢
さて、東ヨーロッパ諸国はチェコ=スロヴァキア(当時)がアメリカとソ連両軍によって解放され、一方でポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアはソ連軍により解放、またユーゴスラヴィアはヨシップ・ブロズ・チトー(1892〜1980年)が率いる人民解放軍(パルチザン)によって、またアルバニアはユーゴが支援したレジスタンスによって解放されました。これらの国々は、ユーゴスラヴィアが1948年にソ連と決別し、独自の社会主義国化路線を歩むほかは、各国で共産党が政権を握り、スターリン率いるソ連の影響を強く受け、反対勢力は粛清されていきます。
ギリシャはドイツによる占領を受けていましたが、左翼のEAM(民族解放戦線)が率いる軍隊、ELAS(民族解放国民軍)を中心に激しく抵抗。1944年10月にドイツが撤退するとアテネを首都とする新政府が樹立されました。そして、パパンドレウ首相はELASに武装解除を命令しますが、これを拒否されて12月から内戦に突入します。
結局、翌年2月に休戦に合意し、ELASの武装解除とEAMの政治活動の自由が保障され、アメリカの支援を受けながら復興に向けて動き出します。アメリカにとって見れば、東欧で数少ない「非社会主義国」。テコ入れしないといけません。
○東西陣営取り込み合戦
そこで1947年3月、アメリカはギリシャやトルコが共産主義化しないよう、ソ連に対する封じ込め作戦(トルーマン・ドクトリン)を宣言し、両国への援助を活発に行います。さらに同年6月にはアメリカのマーシャル国務長官(1880〜1959年)がヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャル・プラン)を発表。これは、ヨーロッパが協力して長期の再建計画を立案すれば、アメリカは資金供与に応じることを表明したもので、これに呼応したイギリス、フランスなどヨーロッパ16カ国(のち18カ国)による、欧州経済協力機構(OEEC)が発足。これが、現在のEUにつながる欧州統合の第一歩といえるでしょう。また、1948年3月には、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの5カ国で西ヨーロッパ連合条約が結ばれています。
一方で、ソ連は1949年1月に東欧6カ国との間に経済相互援助会議(コメコン/COMECON)を創設し、東欧諸国を囲い込みます。この6カ国とはソビエト、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアのことで、1月遅れでアルバニアも加わったほか、後に他の地域の社会主義国にも広がります。
○ベルリン封鎖!
さて、ドイツ国内は次第にアメリカ、イギリス、フランスの統治エリアと、ソ連の統治エリアの2つに分断されるようになり、1948年6月には米英仏の西側陣営管理地区で通貨改革を実施。ソ連はこれに反発して、ベルリンを封鎖し、西側管理地に入れないようにします。これに対し英米仏は、空から生活必需品を輸送する作戦を展開し、1949年5月にソ連はベルリン封鎖を解きました。
そして同じ年に西側陣営の管理地区は、ボンを首都にするドイツ連邦共和国(いわゆる西ドイツ)として発足。首相には、キリスト教民主同盟という政党を主導するコンラート・アデナウアー(1876〜1967年)が就任。1963年まで長らく首相を務め、この間の1954年に西ドイツは主権を回復しています。
そして同じ年にソ連管理地は東ベルリンを首都にするドイツ民主共和国(東ドイツ)として成立が宣言されます。こちら、社会主義統一党による、事実上の一党独裁国家で(一応、いくつかの政党は存在は許されていました)、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視の徹底など、非常に暗い性格の国家です。
この1949年は他にも重要な出来事がありまして、4月には西側12カ国による北大西洋条約機構(NATO)が誕生します。ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、イギリス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、アメリカの12カ国からなる組織で、ソ連に対抗した安全保障機構です。
○戦後直ぐのイギリスとアイルランド
続いてイギリスと、アイルランドについて詳しく見ていきます。イギリスでは、まだ日本が降伏する1ヶ月前の1945年7月の総選挙でチャーチル首相の保守党が敗北し、労働党が政権を獲得し、クレメント・アトリー(1883〜1967年)が首相となり、重要産業の国有化や社会福祉制度の充実に取り組みます。
首相を退いたチャーチルは、こうしたアトリー政権の政策を批判すると共に、翌年にアメリカで演説を行い、「鉄のカーテン」と表現してソ連を警戒すべきだと訴えます。また、後ほど紹介しますが、同年にはヨーロッパ合衆国構想を提唱しています。
それから、これまで触れてこなかったアイルランドについても、ちょっと見ておきましょう。
イギリスからの独立志向が強かったアイルランド島では、シン・フェーン党(アイルランド語で「我ら自身」を意味する民族主義政党)が伸張し、1919年1月に独立を宣言して、デ・バレラ(1882〜1975年)が大統領に就任。
しかしイギリスはこれを認めず、後にアイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれる義勇軍と衝突。1921年7月に停戦に合意し、ベルファストを中心とする北部はイギリスに留め、その他の地域は1922年にアイルランド自由国として、イギリス連邦内の一国家として発足します。
1932年から共和党(フィアンナ・フォイル)が政権を握り、デ・バレラが首相となって、イギリスからの分離志向を強めていきます。そして、1937年に「主権をもつ独立民主国家」を宣言。新憲法の制定を行い、国名をエールとします。第2次世界大戦では中立を保ち、デ・バレラは1948年に首相を退くと共に、1949年には現在のアイルランド共和国と国名を変え、イギリス連邦からの離脱を宣言しました。
ちなみにデ・バレラは、1951〜54、57〜59年にも首相を務め、さらに1959〜1973年までは大統領に就任。アイルランドの中枢で長らく活躍しました。一方で、南北統一アイルランドを目指して、IRAによるテロ活動がアイルランドとイギリス本土で長らく続き、アイルランドをめぐる火種は長く続きます。
IRAはイギリスのブレア政権時代の1999年に和平合意していますが、現在でも過激派がリアルIRAとして活動を続けています。
ということで、ヨーロッパの動きを見てみました。
東南アジアなどの独立と、これにまつわるヨーロッパの動きについては、次回で見ていきます。
次のページ(第3回 1945年〜54年(3):中華人民共和国の誕生と東南アジア)へ
前のページ(第1回 1945年〜54年(1):国際連合の成立)へ