第8回 1955年〜64年(3):アフリカの年‐独立が続くアフリカ諸国
○ガーナの独立
今回扱う1955年〜64年は、ヨーロッパ諸国の植民地であったアフリカ諸国が次々と独立していきます。まず、1957年に黄金海岸(ゴールドコースト)と呼ばれるイギリスの植民地が、ガーナとして独立。初代首相はクワメ・ンクルマ(1909〜72年 エンクルマと表記されることも)で、独立運動のリーダーだった人物です。
1960年に共和制移行とと共に初代大統領となり、社会主義によるアフリカ統一を訴えます。しかし、一党独裁体制を作り終身大統領を宣言したことから反発を受け、1966年に失脚しています。
というわけで独立後の動きは紆余曲折ありますが、とりあえずガーナの独立自体は、初期の段階でこそ植民地政府によって弾圧されますが、イギリス政府が植民地の自治を認める方向に転換し、選挙も実施されたことから独立は比較的スムーズに進んだと言えるでしょう。
しかし、多くの国では厳しい戦いの末に独立を勝ち取ることになったり、独立後に多民族を国家内に抱える中で内戦に発展していきます。続いて、アルジェリアの例を見ていきましょう。
○アルジェリア戦争とド・ゴールの大統領就任
フランスは1946年〜54年のインドシナ戦争の結果、アジアにおける植民地を失います。そうすると、残るはアフリカに数多く残る植民地の取り扱いが問題となります。その中で、特に対応に困難を極めたのが、アルジェリアでした。
アルジェリアは、第2次世界大戦当時はフランス本国がナチス・ドイツに支配されて、その傀儡政権であるヴィシー政権の反抗拠点の1つとなり、シャルル・ド・ゴール(1890〜1970年)を首班とするフランス共和国臨時政府がここで結成されています。
さあ、問題はこの後で、第2次世界大戦が終結すると独立運動が盛んになり、ついに1954年に現地人(アンディジェーヌ)とフランスからの入植者(コロン)の対立に火が付いてアルジェリア戦争が勃発します。同年に結成されたアルジェリア民族解放戦線(FLN)はゲリラ戦を展開してフランス軍とバトル。この戦いの中で、一般市民が多く巻き込まれて、アルジェリア独立までにフランス兵1万7000人と、イスラム教徒100万人にも及ぶ死者を出します。
これに対して国際的な非難が巻き起こり、さらにフランス本国でも戦いに対する非難が高まったことで、1958年3月にはアルジェリア民族解放戦線との対話を説く、ピエール・フリムラン(1907〜2000年)が首相に就任します。ところが、これにアルジェリアのフランス人入植者(コロン)と現地軍人が反発し、同年5月にフランス本国に対してクーデターを起こします。
そしてコロンたちは、第2次世界大戦時の英雄シャルル・ド・ゴールを担ぎ出そうとしますが、フランス政府は逆にド・ゴールに首相就任を要請。ド・ゴールは大統領の権限を強化し、議会の権限を従来より低下させる新憲法制定などを条件に受け入れます。そして間もなく、新憲法に基づく第5共和政が発足してフランスは体制を一新。ド・ゴールはフランス大統領に就任します。
○アフリカの年と、アルジェリア戦争の終結
ド・ゴールは戦費の拡大がフランスの財政破たんを招きかねないとして、植民地政策の限界を悟っていました。そこで、アフリカにある各植民地の独立を認め、1960年には「アフリカの年」と後に呼ばれるほど、次々とアフリカ諸国がフランスや他のヨーロッパの国からから独立していきます。以下の国が1960年に独立しました。(*特記以外はフランスの植民地)ガボン
コートジボワール
コンゴ共和国(旧ベルギー領、のちザイールの名前を経て現在はコンゴ民主共和国)
コンゴ共和国(同名ですが、こちらはフランス領)
ソマリランド(旧イギリス領、のちソマリアに統合)
ソマリア(旧イタリア領)
モーリタニア
チャド
ニジェール マリ連邦(現在はセネガルとマリ共和国に分裂)
オートボルタ(現ブルキナファソ)
トーゴ
ダオメー(現ベナン)
ナイジェリア(旧イギリス領)
カメルーン(一部は旧イギリス領)
中央アフリカ共和国
マダガスカル
しかしこの中でも特に、旧ベルギー領のコンゴと、それからアルジェリアの独立は単純にはいきませんでした。
ド・ゴールの登場によって、コロンやアルジェリア在住の軍人たちは大いに期待しますが、結局ド・ゴールの採った政策は彼らが期待したものとはまったく逆の方向でした。これに失望した彼らのうち、一部は秘密軍事組織(OAS)を結成して、フランスやアルジェリアでテロ行為を行う過激な行動を実行し、ド・ゴールの暗殺も計画しました。こうした中、ド・ゴールはアルジェリア民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月にエヴィアン協定が結ばれ、アルジェリア独立が承認されます。
これ以後もテロ行為を続けていたOASですが、次第に衰退していきました。
○コンゴ動乱
ベルギー領のコンゴは、1950年代後半からジョゼフ・カサブブのコンゴ人同盟、パトリス・ルムンバのコンゴ国民運動が独立闘争を開始します。そして、ベルギー政府は1960年5月にコンゴで選挙を実施させ、6月30日にカサブブを大統領、ルムンバを首相とするコンゴ共和国が発足します。ところが、この国は大別すると3つのグループが争っていました。ルムンバ首相派:コンゴは国家中枢の権限が強いべきだ!と主張・・・ソ連が支援
VS
カサブブ大統領・モブツ大佐派:地方ごとの権限が強いべきだ!と主張
VS
チョンベ派:カタンガ州(現・シャバ州)分離独立を主張(鉱物資源が豊かなため)・・・ベルギーが支援
こうした中、独立からわずか6日後の7月6日、コンゴ軍がベルギー人将校を殺害したのを契機として、ベルギーに対する暴動へ発展します。ベルギーは、これを口実に「白人を保護する」として7月10日に軍を派遣し、7月11日にカタンガ州は独立を宣言。モイーズ・チョンベ(1919〜69年)が大統領に就任しました。チョンベは西欧寄りの立場で、ベルギーもこれを支援します。そして、これを契機にコンゴは内乱に発展していきます。
これに対してルムンバ首相は国連に支援を求め、国連は2万の兵力を送ってベルギー軍の撤退を実行。一方、ルムンバ首相とカサブブ大統領の対立は決定的となり、1960年9月14日、ルムンバ首相がモブツ大佐のクーデターで拘束されてチョンベ派に送られ、翌年1月に暗殺されてしまいます。(両派は反ルムンバでは一致していた)
これが判明するとソ連と第三世界は激怒し、国連がルムンバ派を支援して本格的に介入。
1963年1月14日にカタンガは独立を諦め、チョンベはスペインに亡命します。
しかし、ルムンバ派の勢力が拡大するということはソ連の影響力が増すということ。これはアメリカにとっては容認しがたい動きです。これを読み取ったモブツは、クーデターを起こして政権を掌握。1965年11月24日に大統領に就任し、国名をザイールに変更。反共産主義を掲げて西側諸国から支援金を一手に引き受け、実に美味しい思いをしながら独裁政権を1997年まで続けました。モブツ体制が崩壊し、コンゴ民主共和国になった現在でも、依然として政情は安定していません。
さて、このコンゴの例に限らず今に至るまでアフリカ諸国では内戦に苦しんでいる例が多くみられます。そもそも様々な民族・部族がいる中で、ヨーロッパの都合で国境線(植民地の境界)を勝手にひいたのですから無理があります。しかも、ヨーロッパ各国は植民地統治時代、民族対立を統治にうまく利用していましたので(Aという民族は優遇し、Bという民族をAに監視させながらこき使ったり)、部族対立は深刻な問題。
さらに独立したは良いものの、国家の根幹となる経済が自立しておらず、貧困は深刻なまま。そこにコンゴのように独裁政権が樹立され、一部の特権階級が甘い汁を吸う状態でした。アフリカのすべての国の人たちが豊かになるのは、いつになることでしょうか。
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