第9回 1955年〜64年(4):大嵐の前の東アジア・東南アジア情勢
○この頃、日本は・・・
今回扱う1955年〜64年は、中国によるチベット侵攻、さらに中国とインドの国境紛争、そしてマレーシア連邦の成立などが大きなニュース。また、これは第3回で先に見ましたが、ラオスがアメリカとソ連の思惑も絡み、右派と左派(共産主義勢力)に分かれて抗争が勃発していました。また、日本は1955(昭和30)年に自由民主党が誕生し、これに野党として日本社会党が対峙する、いわゆる55年体制がスタート。さらに1960(昭和35)年に岸内閣が日米新安全保障条約を締結し、アメリカとの関係を強化する一方、国内では過激な学生運動も巻き起こります。
また、1962(昭和37)年には国産飛行機YS−11が初飛行しているほか、1964(昭和39)年には東海道新幹線が東京〜新大阪間で開業し、同年には東京オリンピックが開催されました。日本は戦争による荒廃から復活し、当時の池田内閣の「所得倍増」のスローガンに代表されるように、高度経済成長への道を歩んでいくことになります。
○中国によるチベット侵攻
さて、まずはチベットに焦点を当てましょう。まず一部は復習になりますが、中華人民共和国は成立すると武力でチベットを制圧しました。こうした状況下で、1951年5月に中国政府はチベット政府に対して十七か条協定(中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議)を結ばせ、チベットのうち西蔵(アムド地方やカム地方などチベット北東部を除く、西南部2分の1程度を占める部分)はチベット政府による自治と、チベット仏教の最高指導者であるダライ=ラマによる「地方自治」を認めました。
注:ダライ=ラマとは、チベット仏教(ラマ教)の最高者の称号で、ダライはモンゴル語で「大海」、ラマはチベット語で「師匠」「上人」「僧」を意味します。ダライ=ラマは死後、転生して次のダライ・ラマになると信じられています。当時は(今もですが)、ダライ=ラマ14世がいました。
現在の西蔵自治区(黄色の部分)と、かつてのアムド地方、カム地方の位置図 *グーグルマップを加工
・・・と、こう書くと中国が少しチベットに譲歩したような雰囲気にも見えますが、要するにチベット全体は中国の領土とした上で、一部は自治はさせてやるよ、それ以外については中国に同化させるぜ、ということです。しかも、実態としては中国は軍を使ってチベット全土の実効支配を強化していきます。地図を見ていただけると解りますが、チベットは実に広大です。
この強引なやり方に、チベット側は反発。1956年にチベット北東部のアムド地方、チベット東部のカム地方において、大規模な反乱が発生します。これは中国人民解放軍によって鎮圧され、多くの難民が発生。難民はチベット中央部に押し寄せます。彼らは軍による残虐行為を訴え、そのうちに中国がダライ=ラマ14世(1935年〜 位1940年〜)の逮捕を計画しているという噂が流れます。
この噂に火が付いたことにより、とうとう1959年3月、チベットの首都であるラサで大暴動が発生します。なにしろ、チベットではダライ=ラマは活仏とされる神聖な存在。そして、この大暴動に対して中国はまたも武力で鎮圧。なんと1988年までに120万人ものチベット人が殺されたと推定されています。南京事件を非難する資格なんてないぞ中国。
また、約10万人が国外に亡命し、約6200もの僧院が破壊されました。そして、ダライ=ラマ14世と数百名の随員は北インドに亡命。チベット亡命政府を樹立して、今に至るまで活動を続けています。この事件をチベット動乱といいます。
○中印国境紛争
こうしてチベットの実効支配が完了した中国は、次いてインドと国境を争います。インドと中国は、途中にブータン、ネパールを挟んで長く国境を接していますが、インドは中国との国境を、旧宗主国のイギリスがインドを支配していたころのラインにしていましたが、中国ははヒマラヤ山系の南側に沿うラインだと主張。ついこの前まで「平和五原則」をインドと共に発表していたのもどこへやら。
1962年10月に、中国はインドに侵攻を開始します。戦闘は12月まで続き、インド軍は敗北。中国は領土の拡大に成功すると共に、インドと仲の悪いパキスタンとの関係強化に乗り出すのでした。一方でインドは、中国との関係が悪化していたソ連との関係を深めていきます。
(*ソ連のフルシチョフ首相がスターリン批判を行ったことに、中国が反発して関係が悪化していた)
○中国、核兵器を保有する
さらに1964年、中国はアメリカおよびソ連の核への抑止力となる核兵器の開発に成功しました。これで当時、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国が核兵器を保有することになったわけですが、アメリカとしては、東アジアの社会主義国家に核保有国が出来るというのは、大変重大な出来事。アジアにおける、アメリカの影響力の低下が懸念されます。
次回本格的に紹介する、ベトナム戦争にアメリカが積極的に介入することになった、要因の1つになったと思われます。
○マレーシア連邦の成立
続いて現在のマレーシア地域のお話。前回見たとおり、1946年、イギリスはマレー半島側(地図上で西側、シンガポールは除く)についてはマラヤ連合として再編。しかし、イギリス植民地時代に労働力として、中国人、インド人の移民が奨励されたことから、他民族が暮らしていたこの地域において、古くから住むマレー人は特権が認められないことに抵抗。
結局、1948年にマレー人に特権を認めた自治政府マラヤ連邦が発足しました。で、ここからが新しいお話でございます。
1955年、マラヤ連邦で初めての総選挙が行われ、マラヤ連盟党が圧勝。憲法が制定され、マラヤを連邦国家にすることや、非マレー人に市民権を補償する一方で、マレー人に公務員のポストなど各種特権を与えることが規定されます。
そして1957年、マラヤ連邦はイギリスから独立を果たします。初代首相にはトゥンク・アブドゥル・ラーマン(1903〜90年)が就任し、さらに国王を持つ立憲君主制の国家としてスタートします。面白いのは国王の任期5年と定められていること。マレーシア半島にある13州のうち、9つの州にいる首長(スルタン)が、それぞれ交代で務めるのが特徴です。
マラヤ連邦政府は発足後、マラヤ共産党による反乱に悩まされる一方、ラーマン首相はマラヤ連邦、シンガポール、サラワク、北ボルネオ(現サバ)、ブルネイからなるマレーシア連邦の結成を提案。この結果、ブルネイを除いた地域で、1961年にマレーシア連邦が誕生しました。国王も引き続き存在し、やはりマレーシア半島の9州から選ばれます。
ただし1965年、シンガポールは政治的、経済的な対立からマレーシア連邦から離脱し、独自の道を歩みます。
○ベトナム戦争前夜
1955年、南北ベトナム政府の対立が深刻化していきます。まず前年の1954年、南ベトナム(ベトナム国)の元首であるバオ・ダイは、ゴ・ディン・ジエム元内相を首相に任命します。
ジエムはカトリック教徒で、バオ・ダイとしては「仏教国であるベトナムで、奴なら支持が集まらず私の政敵にはならんだろう」という判断で首相に選んだようですが、ジエムは地方の武装宗教結社であるホアホア、カオダイの幹部を買収して自派の組織としていったほか、都市部で暗黒街から警察まで牛耳っていたビン・スエンという武装宗教結社を1955年3月に政府軍との戦いで数百名を殺害し、勢力を弱体化させることに成功します。
一方でフランス政府の傀儡とみられていたバオ・ダイは国民から不人気で、こうした状況下でジエムは君主制を問う国民投票を実施し、この結果によりバオ・ダイは元首の座を追われてフランスへ亡命。ジエムは大統領に就任し、また反共産主義者であったため、アメリカの後ろ盾を得ることに成功します。
そして、1956年に予定されていた南北ベトナムの統一を問う選挙では、北ベトナムのホー・チ・ミンの圧勝が予想されることから、ジエムは選挙そのものを拒否。このため、両国の統一は軍事的手段が検討されていきます。
アメリカは、ベトナム全土が共産主義化しないよう、ジエムを支援。アイゼンハワー大統領は、約10億ドルの支援を彼に行いました。しかし、ジエムは自分の一族と、カトリック教徒を極端に優遇し、仏教徒を弾圧し、さらに経済政策が失敗。民衆から反発を受けます。
こうした中で1960年、ジエムとアメリカに反発する南ベトナム解放民族戦線が成立し、北ベトナムの支援の下で南ベトナム政府軍と戦っていきます。アメリカや南ベトナム政府は、彼らのことを「ベトコン」と呼びました。
アイゼンハワー大統領の次の政権であるケネディ政権は、ジエム政権に対する軍事援助を本格化させ、それまでのアメリカ軍事援助顧問団を、南ベトナム軍事援助司令部(通称:MACV)に改組。1961年6月には685人だったアメリカの軍事顧問は、1962年末には1万1000人にも増加。戦闘にも本格的に介入し、アメリカ人の戦死者も発生していきます。
その一方、腐敗するジエム政権下で仏教徒の怒りが爆発し、1963年には仏教徒による大規模なデモや反抗が発生。ケネディ政権も、ついにジエム政権を見限ることになりました。この動きを察知した南ベトナム政府軍のズオン・バン・ミン将軍(1916〜2001年)は、アメリカ国務省の黙認の下、軍事クーデターを敢行。ジエム大統領は弟ともに殺害され、政権は終焉しました。
ちなみにこの3週間後、ケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺され、リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に昇格します。アメリカは、このジョンソン政権下で、泥沼のベトナム戦争に突入することになります。
○本格介入へ
さて、ジエムが倒された南ベトナム政府は権力闘争モードに入り、クーデターが相次いで政情が安定しませんでした。ズオン・バン・ミンはクーデターのたびに亡命、大統領就任を繰り返すようになり、こんな状況で政府軍はベトコンと満足に戦えるはずもなく、各地で敗北し、さらにデモも相次ぎ、南ベトナムは崩壊寸前の様相を見せます。
さあ、アメリカはどうする。
もはや南ベトナム政府は頼りになりません。しかし、ここで完全に見捨てるとベトナム全土が共産主義国家になってしまう。
・・・ならば、アメリカが本格介入するしかない。
こうした中、1964年にトンキン湾事件が発生。これは、北ベトナム軍の哨戒艇が8月2日と4日にアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」へ魚雷で攻撃したとされるもので、8月5日にアメリカ側は北ベトナム側の基地に軍事的報復を実施。8月7日、アメリカの上下両院で「トンキン湾決議」が可決されました。
これは、簡単に言えば「アメリカ軍に対するいかなる武力攻撃を撃退し、侵略を阻止するため、必要な一切の措置をとるという大統領の決意を承認し、支持する」というもの。議会はジョンソン大統領に戦争の全てを任せきった形になります。こうして事実上、アメリカは北ベトナム政府に対して宣戦布告しました。
これに対し北ベトナム政府は、8月2日の攻撃は南ベトナムの艦艇だと勘違いした攻撃で、さらに4日の攻撃は捏造(ねつぞう)だと否定。後に、8月4日の事件はアメリカ政府によるウソであることが暴露されています。こうして、ジョンソン政権は、自ら戦争への道を切り開いていくことになります。
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