第12回 1965年〜79年(2):ベトナム戦争
○泥沼の戦闘へ
さて前の時代の原稿において、アメリカでは1964年のトンキン湾決議によって、対北ベトナム戦略がジョンソン大統領に一任されたことをご紹介しました。そして翌1965年。北ベトナムに対し、アメリカ軍は北爆と総称される定期的な空爆を開始したほか、アメリカ正規地上軍が派兵されます。年の暮れには、何と20万人にも達します。一時は、和平への道も探りますが失敗。戦いは本格的な長期戦に突入しました。
また、韓国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドもアメリカ側として参戦して派兵。特に韓国は朴正熙(パク・チョンヒ)・国家再建最高会議議長(後の大統領)の肝いりで、1964年から1973年までベトナム中部を中心に延べ約32万人の兵士を派遣しています。これはアメリカとの関係強化、軍需による経済発展などが狙いだったようです。
一方、中国は防空作戦部隊や道路建設部隊など、ソ連は軍事顧問らを北ベトナムに派遣して支援しますが、直接的な兵力はあまり送り込みませんでした。
当初は、なに、直ぐ終わると楽観的だったのでアメリカの国民世論も好戦的だったのですが、アメリカのウィリアム・ウェストモーランド将軍(1914〜2005年)の物量に頼った消耗戦略は外れ、死者の数は増える一方。また、これは近年まであまり公にされていませんでしたが、韓国軍による住民虐殺が多発。その数は9000人に及ぶという推計もあり、あの朝日新聞ですら取り上げたことがあります。
朝日新聞 歴史は生きている:韓国 軍も企業もベトナム参戦
http://www.asahi.com/international/history/chapter08/02.html
ちなみに、ウィキペディアのベトナム戦争の項目で韓国軍による様々な虐殺事件について、詳しく取り上げられていますが(閲覧時には写真に注意)、韓国語版だと記述が薄く、中には存在しない項目まである有り様です。
○反戦ムードの拡大
ベトナム戦争で使われた兵器群
(写真:ハノイの軍事博物館にて/撮影:ネオン)
さて、米軍は枯葉剤を撒いて、森林を利用する北ベトナム軍のゲリラ戦に対抗しようとし、現地の住民はおろか、ここで戦う兵士たちにも薬害被害を出してまで戦闘を続行しますが、泥沼化する戦局にベトナム戦争に懐疑的な見方が広がり、そこに大事件が発生します。それは、北ベトナム軍による1968年のテト攻勢です。
ウェストモーランド将軍は、「敵はラオス経由でサイゴン(南ベトナムの首都。現ホー・チ・ミン市)へせめてくると考え防御していたところ、さらに旧正月(テト)は戦わないという、暗黙の了解があったのにもかかわらず、この時期に南ベトナム中で戦闘が始まりました。そう、肝心の南ベトナムで戦闘です。北ベトナムの勢力は、既に南ベトナムの内部に浸透していたのです。
結局、北ベトナムの作戦は失敗し敗退はするものの、アメリカ中に衝撃を与えることに成功。
さらに、いよいよ徴兵を免除されていた学生にも、徴兵の手が伸びてきていたこともあって、一気に反戦ムードが高まります。ジョンソンは民主党ですから、民主党がシカゴで全国大会を開いた時は、学生反戦運動などによる大暴動になりました。また、メディアも若い世代が現地から報道をするので、今までとは違った視点から放送するようになります。
そうそう、このベトナム戦争は、まだ技術が未発達で数時間遅れではありますが、アメリカに戦闘の模様が中継されます。むしろ、時差がありますから、アメリカの昼に、ベトナムの昼に撮影された衝撃的な映像が流れるので、影響力は抜群でした。なお、初めてちゃんとライヴ映像が流された戦争は、湾岸戦争になります。
ジョンソンは再び和平の道を探ります。1968年3月31日、北爆の部分的停止が表明され、5月には北ベトナムとアメリカの和平会談がパリで開催。さらに北爆は10月に全面停止されました。
しかし、戦争はまだ続きます。
ニクソン大統領のベトナム政策
1969年1月20日、共和党のリチャード・ニクソン(1913〜94年)が大統領に就任します。ニクソンは、ベトナム戦争の早期終結を訴えて大統領選に勝利し、当時約54万人もベトナム駐留していたアメリカ軍のうち、7万5000人を引き揚げさせますが、それでも戦争は継続されます。こうした中、9月には北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンが79歳で死去します。1970年4月、アメリカ軍は何とカンボジアに侵攻します。これは、カンボジア国内のベトナム共産勢力を叩くためでした。別途紹介しますが、この少し前にカンボジアではクーデーターで親米政権が樹立され、このアメリカ軍による侵攻もカンボジア政府の容認を得たものなのですが、そのカンボジアは国内で内戦が勃発することになります。
そんな中、1968年3月16日にアメリカ軍の部隊が、南ベトナムのソンミ村で住民504名を虐殺したソンミ村虐殺事件が明らかになったこともあり、反戦運動はさらに広がりをみせ、そのパフォーマンスもヒッピーに代表されるように音楽を使った物など、様々な形で表現されます。
また、日本でも通称「ベ平連」という市民による反戦運動が起こります。ちなみにこれ、社会党・共産党が介入しない市民運動として重要な出来事でした。
MiG-21(ミグ21)
ソ連製の戦闘機で、北ベトナム軍の主力として使用。(写真:ハノイの軍事博物館にて/撮影:ネオン)
1972年、戦いはさらに激化し、北ベトナム軍は一気に攻勢に出ます。これに対し、アメリカ軍は北爆を強化。俗に言う絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)で、北ベトナム地域の奥地に至るまでガンガン爆弾を打ち込みます(これに対する批判には、東京空襲みたいのを絨毯爆撃というんだ、という居直るものまで・・・)。
しかし、結局効果は上がらず、ようやく和平交渉に入ります。
1973年1月27日。パリで和平条約が調印され、29日にアメリカ地上軍はベトナムから撤退しました。いやはや、これでベトナム戦争がようやく終結・・・しません。
南ベトナム政府はまだ北ベトナムと戦います。しかも、アメリカ海兵隊、タイを拠点にしたアメリカ空軍、特殊部隊、軍事顧問団も抵抗を続けるのです。とはいえ、本格的なアメリカの支援は無くなり、1975年4月30日に南ベトナムの首都サイゴンが陥落したことで、ようやく戦争は終結しました。そして1976年7月1日に南北ベトナムは統一されました。
ちなみに、サイゴンから撤退するアメリカ軍の軍艦には、数多くのベトナム人が「北ベトナム政府に粛清される」事を恐れ、我先にと乗り込みました。サイゴンからアメリカ軍の軍艦までの輸送にはヘリコプターが使われましたが、輸送を完了すると、ヘリコプターはスペースの問題から次々と海に捨てられました。
その時の生々しい映像は、NHKの映像の20世紀などで見ることが出来ます。なお、ベトナム戦争ではアメリカ軍5万人以上が戦死、15万人が負傷し、200万人のベトナム人が殺されました(数字は諸説あります)。
ところで、このベトナム戦争に従軍した兵士たちにとって戦争の時の恐怖がトラウマになって残るといった、後遺症も残りました。その一方、このトラウマがきっかけで、こういった精神問題に関する研究が一層進むことになります。ベトナム戦争は、良くも悪くも何かと影響を与えたわけです。
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