第14回 1965年〜79年(4):文化大革命の嵐が吹き荒れる中国
○大躍進政策の失敗と毛沢東の失脚
前回見たポル・ポトによる人民の強制移住と大虐殺も凄まじいものでしたが、それに先立ち、1965年秋から中国では文化大革命が起こり、何と一説には2000万人ともいう犠牲者数を出しています(*知恵蔵2012の記述による)。さてさて、具体的にはどんな出来事だったのでしょうか、そして、その背景やいかに・・・?元々は1958年に中国の国家主席である毛沢東が主導した大躍進政策が大失敗し、2000万人もの餓死者(*角川書店 世界史辞典 2001年初版による)を出したことから、さすがの毛沢東も翌年に国家主席の辞任を余儀なくされたことに始まります。これは、「15年でイギリスに追いつき追い越す」ことを目標に、何の科学的・技術的根拠もなく、高い目標だけ掲げて、ずさんな管理の元で製鉄、製鋼や農業生産物の無理な増産を指示。
目標未達成、残念でした・・・ならまだしも、毛沢東の指示ならば意地でも目標の達成を目指さないといけません。しかも、「すべての農村が工場になる」ことを強調して、農村工業化を進めますが、いきなり農村で製鉄、しかも良質なものが造れるわけがありませんし、原料の調達や輸送ルートなど、まったく何も考えられていませんでした。
工業製品は満足に出来ないわ、農作物の生産にも手が回らず自然災害もあって大不作。目の前にあるのは強烈なノルマだけ。これによって特に農村地帯は、社会的・経済的に混乱し、食糧不足に陥り多くの餓死者を出しました。
さて、毛沢東に代わって劉少奇(リウ・シャオチー/りゅうしょうき 1898〜1969年)が国家主席となり、総書記の(ダン・シャオピン/とうしょうへい 1904〜97年)と共に市場経済を重視した、つまり現実的な経済政策に舵を切ろうとしていました。ところが毛沢東は、これに反発して権力を取り戻すことを企みます。
○文化大革命
毛沢東
そこで毛沢東は、1965年11月に政治家の姚文元(ようぶんげん 1931〜2005年)による論文「『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」によって、劉少奇らを批判させて口火を切ります。しかし、これは劉少奇らのグループ(実権派)によって抵抗に遭い上手くいかなかったことから、中学、高校、大学の学生たちを紅衛兵(こうえいへい)として組織し、「造反有理」(造反には道理がある)をスローガンに、「実権派」を批判させます。
1966年になると、紅衛兵を使って伝統的文化の破壊、知識人や高級官僚に対する大規模な弾圧を開始(プロレタリア文化大革命)。紅衛兵たちは様々な人をつるし上げ、毛沢東の思想に染まっていないと見ると集団で圧力を加えて自己批判させたり、さらには暴行を加え死傷させたりします。また、文化財を次々を破壊していきます。
さらに、文芸作品は、毛沢東の妻である江青(ジャン・チン/こうせい 1914〜91年 *当時、党中央文革小組第1副組長)の息のかかった革命規範劇以外は許さなくなりました。
一方で紅衛兵はいくつかのグループに別れると、「自分達の方がより革命的である」と互いの過激さを競い合うようになります。この結果、街中で「てめぇは反革命的だな!」と人々に暴力を加え、敵対するグループ同士で争う状況にさえ、国内は無政府状態に近くなります。暴走する紅衛兵を見て、毛沢東は1967年に「三・七指示」を出して紅衛兵たちを学校に戻し、その後「下放」として地方農村へ強制移住させました。
・・・好き放題やらせまくって、用が済んだらポイ・・・。
こうした社会的な圧力を実権派に加えた結果、1968年に劉少奇は失脚し、党からの永久除名、公職剥奪(はくだつ)の処分をうけ、翌年河南省で失意のうちに死去しました。また、は強制労働に従事させられます。
1969年の党大会では、毛沢東の息のかかった林彪(リン・ピャオ/りんぴょう 1907〜71年)が毛沢東の後継者に指名。毛沢東は実質的な権力を取り戻します。その林彪も毛沢東に権力を握ろうとしているのではと疎まれ、林彪は追い詰められていきます。そして1971年9月、林彪はクーデターを企て失敗。ソ連に亡命する途中、彼の乗った飛行機がモンゴルに墜落して、死亡しました。
○アメリカ、日本との国交樹立
さて、文化大革命期にはソ連と中国の関係が悪化し、1969年には小競り合いも発生します。他方で周恩来首相(ヂョウ・オンライ/しゅうおんらい 1898〜1976年)はアメリカ、日本など西側諸国との関係改善を進め、1971年には国連総会で、中国の代表権が台湾(中華民国)から中華人民共和国に移ります。そして1972年、なんとアメリカのニクソン大統領による中国訪問を実現させ、今後国交正常化へむけ連携を一層強化することを宣言。一方、この動きを知らされていなかった日本は驚き、大急ぎで日中国交正常化へ動き出します。そして同年9月、田中角栄首相、大平正芳外相が北京を訪問し、日中共同声明により国交を回復しました。同時に、日本と台湾(中華民国)との国交は、「一つの中国」という原則のもとに、断絶されました。1978年10月には日中平和友好条約を締結しています。
またアメリカと中国は1979年1月、アメリカではジミー・カーター政権時代に国交が樹立しました。
一方で同じ共産主義国家であるベトナムとは、前回見たとおりカンボジアのポル・ポト派を支援する中国に対し、ベトナムがヘン・サムリンによる政権樹立に動いたことから対立。1979年2月に中国はベトナムに侵攻しますが、撃退されてしまいました。これを中越戦争といいます。
○毛沢東の死去と文化大革命の終焉
そして、共産党内の権力闘争は、文化大革命期にも失脚しなかった周恩来首相が「四つの現代化」(農業、工業、国防、科学技術)を提唱して、文化大革命の時期に批判されて失脚した人々を政権に復帰させ始めたことから、江青と、その側近である王洪文、張春橋、姚文元(ようぶんげん)の通称「四人組」を中心としたイデオロギー急進派と争われるようになります。毛沢東と周恩来の関係は複雑だったようで、実務能力に優れ民衆の支持が高かった周恩来を毛沢東は認めざるを得ず、また周恩来は毛沢東の疑念を抱かないように慎重に振舞っていたことから、失脚させるわけには行かず、一方でやはり周恩来の人気は毛沢東にとって好ましくなく、四人組を使って彼の動きをけん制していました。
そんな中、1976年1月に周恩来が死去すると、その死を人悼む民衆が4月5日に天安門広場に集まります。江青らはこれを反革命的であるとみなして弾圧。これを第一次天安門事件(四五天安門事件)といいます。また、政権に復帰していたを再び失脚させることに成功しました。
天安門
しかしこの年の9月に毛沢東がついに死去。
すると、毛沢東が後継者として選んでいた華国鋒(ホワ・クオフォン/かこくほう 1921〜2008年)は、江青ら四人組を逮捕して党内をまとめます。そして党主席・首相・党中央軍事委員会主席に就任して、中国の最高指導者となり、文化大革命の終結を宣言。さらには国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰しました。
また、1979年からはらが中心となって改革開放政策の一環として、広東・福建両省の沿岸にある四都市、深セン、珠海、汕頭、廈門の4都市を経済特区と定め、外国の資本や技術の導入を認め、実質的に資本主義を認めることで経済発展を促すようにしました。ようやく、中国の経済発展が始まることになります。
ということで御覧いただけるとわかりますが、毛沢東時代に数千万人もの中国の人たちが死に追いやられました。前述の参考資料による犠牲者数を単純に足すと、大躍進政策と文化大革命だけで4000万人・・・!!反日に利用される、いわゆる南京大虐殺の犠牲者数が0なのか、数万なのか、数十万なのか、そんなレベルじゃありません。
言論の自由がない中国では毛沢東批判はご法度、というか既に毛沢東時代の暗い歴史を教えられず、知らない世代も多いと思いますし、そもそも文化大革命などでは積極的に関わった人も多いでしょうから、こうした歴史に触れたくもないのでしょうが、反日で盛り上がる前に、自国の指導者が過去に何をやったか、せめて中国に住んでいない中国の人たちには、よく理解していただきたいものです。
○韓国の動き
続いて、今回扱う時代の少し前から韓国の動きを見ていきます。1960年、韓国の李承晩(イ・スンマン/り・しょうばん 1875〜1965年)大統領が同年の大統領選で野党に対して露骨に選挙干渉を行ったことから、四月革命(学生革命)が発生。ソウルの大学を中心に発生したデモに対し、大統領はこれを弾圧して死傷者を出すと国民的な大統領退陣デモに発展、4月27日に李承晩退陣し、翌月にはハワイに亡命します。
そして許政(ホ・ジョン)臨時政府、ついで民主党の張勉(チャン・ミョン)政権により不正蓄財者追放などの改革が行われますが、なんと1961年5月6日に陸軍少将の朴正熙(パク・チョンヒ 1917〜79年)らが軍事クーデターを実行し、政権を奪取します。そして朴正熙は軍首脳の懐柔に成功し(後に排除しますが)、1962年に大統領代行、1963年の選挙で第5代大統領に就任しました。
○日本との国交回復
さて、ここからが今回扱う時代のお話。1965年、朴大統領は日本(佐藤栄作内閣)と日韓基本条約を結び日本と国交を回復します。全部で7条という短いものですが、注目すべきは第2条と第3条です。
第二条
1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。
第三条
大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。
要するに、かつて日本が韓国を併合する前に結んだ諸条約は無効になったことを確認し、そして朝鮮半島にある政府は、(北朝鮮ではなく)韓国だけが唯一合法である、と確認したのです。
また、これに合わせて日韓漁業協定、賠償請求権問題の解決と経済協力に関する協定、在日韓国人の法的地位および待遇に関する協定、文化財および文化協力に関する協定などの協定・外交公文も結ばれ、李承晩時代の1952年に「ここが韓国の海だ!」と一方的に設定した李承晩ラインについては、1965年3月までに廃止することで合意。
そして対日賠償請求権については、無償贈与3億ドル、政府借款2億ドルと、3億ドル以上の民間借款などの供与(当時は1ドル360円)という、莫大な金額を日本が支払うことで合意しました。朴政権はこの資金を個人への補償ではなく、インフラ整備など工業化に充当し、経済発展を進めます。
それでも韓国国内では「屈辱的だ」として激しい反発が巻き起こり、日本からの賠償を求め、未だに条約の無効を訴える運動も起こっているほか、当時の日本でも社会党や共産党など左派を中心に、「アメリカ中心の日韓軍事同盟を拒否せよ」と反発し、これに扇動された激しいデモが発生。条約について、参議院では4日間、39時間55分という長時間審議の末に、自民党は民社党の賛成を得て、条約調印を強行しました。
また、この条約類では竹島(韓国名:独島)の帰属問題については棚上げ。そうこうしているうちに、いまや完全に竹島は韓国が実効支配するようになっているのは、周知の事実。日本が棚上げで問題に触れないうちに、韓国では教育や宣伝でせっせと「独島は韓国のものだ!」と教え込ませ、いわゆる従軍慰安婦問題とセットで反日運動に利用させているのは、毎度おなじみ。
政治的な問題を先送りすると、こうなってしまうという例だと思います。
○ベトナム戦争への参戦
さて、朴大統領は反共・親米の立場から、ベトナム戦争においてアメリカを積極的に支援。韓国軍をベトナムに派兵し、北ベトナム軍と戦わせます。なんと、1964年から73年までベトナム中部を中心にのべ約32万人が派兵され、日本から得た資金と共に、アメリカからの支援、そして軍需特需によって経済発展を進め、現在見られる韓国の財閥系企業の発展の基礎は、この時代に築かれます。また、ベトナム戦争の項目でも紹介したので再掲となりますが、韓国軍による住民虐殺が多発。その数は9000人に及ぶという推計もあり、あの朝日新聞ですら取り上げたことがあります。
朝日新聞 歴史は生きている:韓国 軍も企業もベトナム参戦
http://www.asahi.com/international/history/chapter08/02.html
ウィキペディアのベトナム戦争の項目で韓国軍による様々な虐殺事件について、詳しく取り上げられていますが(閲覧時には写真に注意)、韓国語版だと記述が薄く、中には存在しない項目まである有り様というのは、重ねて紹介させていただきます。
迎賓館 (ソウルにて)
1978年完成。国賓を招いた晩餐会や大規模な会議で使用されます。
○朴大統領の最期
朴大統領はまた、強権的な政治体制を築き、韓国中央情報部(KCIA)を使って諜報(ちょうほう)活動や対北朝鮮工作を行わせ、国内の反体制派を押さえ込みます。それでも1971年の大統領選挙では、金大中(キムデジュン 1925〜2009年)が善戦したことに危機感を覚え、翌年に維新憲法(第4共和国憲法)を公布し、独裁体制の構築を進めます。経済が発展する一方で民主化は弾圧し、言論の自由も制約。こうした政策に人々の不満が出て、釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が発生する中、1979年10月26日に朴大統領は、側近でKCIA部長である金載圭によって射殺され死亡しました。
これで民主化に向かうのかと思いきや、今度は全斗煥(チョン・ドゥホアン 1931年〜)が軍の実権を掌握(粛軍クーデター)し、さらに軍政反対をかかげる民主化運動を武力で鎮圧し(光州事件)、1980年8月に大統領に就任しました。
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