第15回 1965年〜79年(5):インドとパキスタンの対立
○犬猿の仲のインドとパキスタン
今回はパキスタンがカシミール地方に攻め込んでインドと交戦した第2次インド・パキスタン戦争(1965年)と、パキスタンから東パキスタンがバングラデシュとして独立する際に、インドが介入してパキスタンと戦争になった、第3次インド・パキスタン戦争についてみていきましょう。まずは、これまでのおさらいに、少し新しい話を加えて御紹介。パキスタン、インド、バングラデシュと並んでいますね。上側の印は、このあと紹介するカシミール地方です。
いずれも第2次世界大戦前はイギリスの植民地(イギリス領インド帝国)で、この中ではさらに、藩王国と総称される小さな国家が500程度もあって、イギリスに従うことで、その存在が許されていました。
そして1947年にインドはイギリスから独立することになりますが、紆余曲折の上、イスラム教徒の多いインド帝国の西側と東側は、パキスタンとして独立することになりました。このときには、まだバングラデシュは出来ていません。東と西でインドを挟んで1600kmも離れていますが、現在のバングラデシュも含めて、パキスタンという統一国家でした。
この際、新しく国境を引くものですから、「俺はインドへ行くぞ」「俺はパキスタンへ行くぞ」と人々は民族大移動状態。殺伐とした空気の中、宗教対立まで発生して、殺し合いにまで発展。100万人もの人々が亡くなったといわれています。ここに、インドとパキスタンの仲が悪い要因が生まれます。
さて、先ほど紹介した藩王国もインドに統合されるか、パキスタンに統合されるか、選択することになりました。
中には独立を目指そうとしたところもあって、中でもニザーム藩王国(先ほどの地図で下側の印)は藩王がイスラム教徒だったので、「パキスタンに入りたい・・・けど、うちは東パキスタンも、西パキスタンからも遠い。じゃあ、独立するか!」と計画するのですが、御覧いただければわかりますが、インドの中央に近い地域。しかも、住民の大半はヒンドゥー教徒でした。
インド政府が独立を認めるはずもなく、1948年に制圧されてしまいました。
もう1つ、藩王国の処理を巡って対立の元になったのが、カシミール地方でした。ここは藩王がヒンドゥー教徒、住民の大部分がイスラム教徒であり、インド、パキスタン共に主権を譲りませんでした。このため、1947年10月にパキスタン軍がカシミール地方に侵入。インド軍との先端が開かれました。これを、第1次インド・パキスタン戦争といいます。
この結果、1949年1月に国連の調停によって、カシミール地方の3分の2をインド、3分の1をパキスタンにわける形で停戦ラインが引かれ、とりあえずの紛争は終結しました。しかし、「第1次」という表現で解るとおり、その後も紛争は続いていきます。
その後、パキスタンをアメリカが支援するようになり、一方でインドのジャワハルラール・ネルー首相は非同盟中立政策を掲げ、1954年に中国の周恩来首相と共に平和五原則を発表します。これは、領土の主権の尊重、領土の不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存を柱とするものです。
○中印国境紛争
・・・スミマセン、おさらいはもう少し続きます。こうして中国は、インドと関係強化をしながら、一方でチベットの実効支配に成功します。
すると中国は、なんとインドに対して「中国の領土をインドが不当に支配している」と主張し始めます。互いの言い分としては功です。インドは中国との国境を、旧宗主国のイギリスがインドを支配していたころのライン、中国ははヒマラヤ山系の南側に沿うラインだと主張。平和五原則、はてどこへ・・・?
ただ、インドがチベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世の亡命を受け入れて、中国が激怒した、という事情もあるようです。しかし激怒するも何も、そもそもチベットは中国のものでは・・・(以下略。
そして1962年10月20日に、中国はインドに侵攻。ちょうど、ソ連がキューバに核ミサイルを配備してアメリカが猛反発し、米ソが全面的な戦争になりかけていたキューバ危機が発生していた時であり、世界が「ついに核戦争か!?」とドキドキしていた中、狙ったかのような侵攻日の設定です。
戦闘は12月まで続き、インド軍は敗北。中国は領土の拡大に成功すると共に、インドと仲の悪いパキスタンとの関係強化に乗り出すのでした。一方でインドは、中国との関係が悪化していたソ連との関係を深めていきます。また、アメリカもインドに軍事援助を開始します。
(*ソ連のフルシチョフ首相がスターリン批判を行ったことに、中国が反発して関係が悪化していた)
この際に主戦場の一つになったのが、カシミール地方。中国は中印国境紛争を通じて、カシミール地方東部のアクサイチン(約3万kuの地域)を実効支配するようになります。よくカシミール問題というと、インドとパキスタンの関係性ばかりクローズアップされますが、実は中国との間にも紛争が存在しているのです。
○第2次インド・パキスタン戦争
さて、ここからが新しい話(・・・なんと長い前振りでした)。中国の後ろ盾を得たパキスタンのアユーブ・ハーン大統領(軍人出身で、1958年に無血クーデターに成功して独裁政権を樹立していた)は、インドの軍事力が増強する前にカシミール地方を制圧しようと考え、1965年9月1日にカシミール地方のインド側支配地域に攻め込みます。これに対しインドは、カシミール地方の南、パンジャーブ地方からパキスタンへ侵攻。ここでパキスタン軍はインド軍に敗北し、パキスタンの旗色が悪くなります。
そして国際社会の圧力がかかり、9月22日にパキスタンは国連の停戦仲裁を受け入れました。
さらに1966年1月、ソ連の仲介で、アユーブ・ハーン大統領とインドのラス・バハドウル・シャストリ首相がタシケント(現在はウズベキスタンの首都)を訪問し、両国は開戦前の状態に戻ることを定めたタシケント協定に調印しました。
○バングラデシュの独立
タシケント協定が結ばれた同じ月である1966年1月、インディラ・ガンディー(1917〜84年)がインドの首相に就任します。インディラは、ネルー首相(*1964年に亡くなった)の一人娘で、この後に強力な指導力で、僅かな期間を除き1984年まで首相としてインドの舵取りを行います。また、その後も彼女の一族は、政治家一族としてインド政界に未だに深くかかわっているのですが、これはまた別の時代でお話しましょう。ちなみに、非暴力による独立運動で有名な、インド独立の父マハトマ・ガンディーとは血縁的な関係はありません。
一方でパキスタンでは、アユーブ・ハーン大統領のカシミール対応と結果に国民の反発が高まり、ズルフィカル・アリ・ブットー外相(1928〜79年)は政権を離れて、パキスタン人民党(PPP)を設立。アユーブ・ハーン政権を厳しく批難します。予想以上の批判の高まりに、1969年3月、アユーブ・ハーン大統領は辞任を表明しました。
これを受けて次に政権の座に着いたのが、陸軍総司令官のムハンマド・ヤヒヤー・ハーン将軍。引き続き軍事政権が継続し、ヤヒヤー・ハーンは早速、戒厳令を出して、反政府運動を封じます。一方、国民への人気取りのために、300人の高級官僚を解任したり、当時のパキスタンの経済を握っていた30もの財閥の活動を抑えるため、1970年に独占禁止法を制定。
さあ、ここからが本題です。もう一度地図を見ましょう。
当時はバングラデシュ(東パキスタン)もパキスタン領でした。しかし、この頃になると、東パキスタンの住民からしてみれば「イスラム教は信仰しているけど、言語も民族も違うのに、何で西パキスタンと一緒なんだ?」となります。そこで、東パキスタンの政党であるアワミ連盟の指導者ムジブル・ラーマン(1920〜75年)らは
「パキスタンを連邦国家にしよう!連邦政府は国防と外交のみ担当し、通貨も相互利用を前提にした上で、東西パキスタンで別にしよう!」
と主張するようになります。さらに、1970年12月の総選挙ではアワミ連盟が、東パキスタン地域に割り当てられた162議席中、160議席を獲得。パキスタン全体でも議会の過半数を確保します。
この結果に、
「これはやばい。東パキスタンの要求が通ってしまうじゃないか!」
と、ヤヒヤー・ハーン大統領は驚き
「こうなったら、議会を開催しないことにする!」
として、議会開催の無期限延期を決定。さらに、ヤヒヤー・ハーンとムジブル・ラーマンの会談も決裂します。
これに激怒した東パキスタンは、1971年3月26年にバングラデシュとして独立を宣言します。
○第3次インド・パキスタン戦争
そこで、またインドとパキスタンが戦争になります。さて、どうしてこうなったのでしょうか。まず、バングラデシュが独立を宣言すると、パキスタン軍が動き出し、ムジブル・ラーマンを逮捕し、独立運動を弾圧します。これによって、インド政府の主張では約1000万人のバングラデシュの人たちが難民となって、インド側に流入。さらに、インドのカルカッタ(現在のコルカタ)で、アワミ連盟によるバングラデシュ亡命政権が成立します。
そこでインドのインディラ・ガンディー首相は、軍事介入することを決定します。
1971年12月3日、インド軍はパキスタン軍と交戦し、第3次インド・パキスタン戦争が始まりました。そして、戦争開始から13日後の12月16日、東パキスタン駐留軍司令官がインド軍に降伏し、またパキスタンはインドに敗北してしまいました。
そしてバングラデシュは正式に独立を達成し、ムジブル・ラーマンは首相に就任しました。
しかし1975年、ラーマンは軍事クーデターで殺害され、その生涯を閉じてしまいます。
○再び軍事クーデターが起こったパキスタン
一方パキスタンでは、ヤヒヤー・ハーン大統領が辞任。パキスタン人民党のブットーに政権を移譲しました。大統領に就任したブットーは、基幹工業、保険会社、国内資本の銀行、教育機関を国有化を進め、さらに1973年4月に憲法を改正し、大統領は別に置いた上で、自らは首相となり政権を握ります。そして、1977年3月に総選挙を行い、勝利しますが、野党連合であるパキスタン国民連合(PNA)は「選挙は不正だ!」として反発。
議会が正常化しない中、1977年7月5日、陸軍参謀長ムハンマド・ジア・ウル・ハク将軍がクーデターを起こし、軍事政権を樹立。ブットーを処刑し、パキスタン人民党などを解党させました。この後、どうなったかについては、また次の時代で。
さて、このように第2次世界大戦後にインドとパキスタンは3度にわたって戦争し、犬猿の仲。
流石に最近では関係改善の傾向も見られますが、不用意な政治家の失言やカシミール問題、イスラム過激派、不安な要素は色々あり、今後とも両国の関係には注意が必要です。
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