第19回 1965年〜79年(9):ブラジル・アルゼンチンとオーストラリア
○はじめに
今回は、この年代で取り上げていなかった国のうち、主だったものを簡単にピックアップしてご紹介します。軍事政権下のブラジル
1964年3月に軍事クーデターによって、軍事政権が樹立されたブラジルでは左翼勢力が厳しく弾圧され、1965年に軍政令や、1966年に大統領に就任したアルトゥール・ダ・コスタ・エ・シルヴァや、さらに1969年に大統領に就任したエミリオ・ガラスタズ・メディシの政策によって、強権的な政治が押し進められました。一方で、経済成長政策も推し進められて、ブラジル各地で開発が拡大。他方、軍事政権に反発する都市ゲリラとの戦いや、インフレや貧困問題が深刻化しています。ブラジルで文民政権が復活するのは、1985(昭和60)年まで待つことになります。
軍事政権下のアルゼンチン
こちらも1966年に軍事クーデターが発生し、ウンベルト・イリア大統領が追放され、フアン・カルロス・オンガニーアによる軍事政権が樹立されました。こちらも強権的な政治を行う一方、 外資導入による経済成長政策を進めようとしますが、フアン・ペロン元大統領を支持するペロニスタや、その分派との戦いは内戦状態に近いものとなり、軍事政権は穏健政策に転じ、1973年3月に自由選挙を実施しました。この結果、正義党(ペロン党)が勝利して、同年3月から5月まではカンポラが大統領に。しかし、国内がテロで大混乱状態の中で彼は辞任し、再選挙を経て、亡命先から帰国したフアン・ペロンが同年9月から3度目の大統領に就任します。しかし、彼も高齢のために翌年に死去。代わって、彼の妻で副大統領のイサベル・ペロン(1931年〜 )が、南米初の女性大統領に就任しました。
ところがテロ行為などの国内の混乱、疲弊した経済の立て直しにイザベル政権は無力で、1976年3月にまたも軍事クーデターが勃発。ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍(1925〜2013年)が大統領に就任し、後に「汚い戦争」と呼ばれるほど、以前の軍事政権よりもさらに強権的に反対勢力を締め付け、1万人から3万人、あるいはそれ以上と推定される多くの一般市民が行方不明となりました。イザベル・ベロンは横領罪で逮捕され、5年間収監され、釈放後はスペインで過ごしています。
一方、ビデラ大統領の経済政策は大失敗で、イザベル政権以上のインフレーションを招き大失敗。1981年にガルチエリ将軍に大統領職を譲り、辞任しました。なお、ビデラは後に裁判にかけられ終身刑に。恩赦を受けて出所したこともありましたが、さらなる罪が明らかになって、2010年には再び終身刑となり、2013年にマルコスパズ刑務所にて死去しています。
長期政権続くオーストラリア
続いて、これまで触れてこなかったオーストラリアをご紹介しましょう。オーストラリアでは、第2次世界大戦当時の1939年から1941年に首相を務めた、ロバート・ゴードン・メンジーズ(1894〜1978年)が、1949年に自由党を率いて再び首相に就任し、なんと1966年まで長期政権を維持しました。その後の政権は、1972年から75年まで労働党が担いますが、1983年までは再び自由党が政権の座に就き、ジョン・マルコム・フレーザー首相(1930年〜 )による8年にわたる長期政権が続きます。
この間、オーストラリア政府は朝鮮戦争やベトナム戦争にアメリカ側として参戦したほか、1951年にはニュージーランド、オーストラリア、アメリカ3国間の安全保障条約であるアンザス条約を締結。
さらに、1954年には、隣国のニュージーランドとともにSEATO(東南アジア条約機構)に加盟するなど、アメリカ側に立った上で、アジア重視の外交政策を展開。日本に対しても外交、経済面で重要視した方針を採りました。さらに、1966年に白豪主義移民政策を緩和したほか、翌年には先住民に完全な市民権を与えることを国民投票で決定しています。
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