第21回 1980年〜89年(2):イラン・イラク戦争

○はじめに

 1980年代について、前回はいつもと同じく全体的な流れを年表で確認しましたが、今回はイラン・イラク戦争にスポットを当ててご紹介したいと思います。

まずは場所の確認


 イランとイラクって、名前が似ていますし、隣接していますが、こうやって見ると面積はかなり違いますね。

パフラヴィー朝の時代

 さて、イラン・イラク戦争を見ていく前に、 まずは第1次世界大戦後のイランについて見ていきたいと思います。まずは、イギリスが深くかかわってきます。それはロシア革命後、イランはイギリスとソ連が勢力争いの場となり、一方でイランを支配していたカージャール朝は力を失い、地方革命政権が誕生していたことに発端します。

 この状況を打開すべく、イギリスはイラン・コサック軍の司令官であったレザー・ハーン(1878〜1944年)を支援。そして1921年にレザー・ハーンはクーデターを起こして、イラン国軍の司令官、首相に就任し、さらに議会の承認を経て1925年に皇帝アフマド・シャー(1898〜1930年)を退位させ、自らが皇帝に就任します。

 レザーハーンは皇帝即位後はレザー・シャー・パフラヴィーを名乗り、パフラヴィー朝が創始されます。そして西洋式の近代改革を開始し、司法改革、国民銀行の創設、義務兵役制度の創設を実施。さらに1935年には国号をペルシアから、イランに変更しました。

 第2次世界大戦では中立を宣言するも、ドイツ寄りの姿勢を見せたために、1941年にイギリスとソ連の侵攻を受け(イラン進駐 )、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィー(1919〜80年)に帝位を譲り、退位させられました。当初はムハンマド・モサデク首相(1880〜1967年)が実権を握り、1951年〜53年にかけて石油会社の国有化を推進。これはイギリスから激しい反発を受けます。

 この状況下で、パフラヴィー皇帝を支持する軍隊がクーデターを起こしてモハンマド・モサッデク首相を解任。これ以後、イランは皇帝による独裁体制となり、1963年からは白色革命と呼ばれる近代化改革に着手し、アメリカの支援の下で、農地改革や工業化の推進、女性参政権の導入、教育の向上を図っていきます。

 こうした一連の政策はイスラム軽視とも受け取られ、さらに特権層に石油が生み出す富が集中したこともあって、次第に反発を生むようになります。


イラン革命の勃発

 そして1978年、政権を批判して国外に追放されていたルーホッラー・ホメイニー(1902〜89年)はイラン皇帝とアメリカを批判する檄を亡命先のフランスから飛ばし、彼を精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)と支持者による反政府デモと暴動が多発する事態となります。

 パフラヴィー皇帝はこれを収拾することができず、1979年1月にエジプトへ亡命し、翌月にホメイニーがパリからイランへ帰国。イラン・イスラム革命が成就し、4月1日にイラン=イスラム共和国が発足しました。

アメリカ大使館襲撃事件

 さて、亡命したパフラヴィー皇帝はモロッコ、バハマ、メキシコを転々した後に、癌(がん)治療を名目として、アメリカへの亡命を希望。これに対し、最終的に当時のカーター政権はこれを受け入れます。ところが、ホメイニーらによってイランの反米感情は頂点に達しており、さらに革命の敵である皇帝の亡命を受け入れたことに対し、イスラム法学校の学生らが猛反発。

 1979年11月14日、約400名の学生らはイランの首都・テヘランにあるアメリカ大使館を占拠し、アメリカ人外交官や大使館を警備する海兵隊員とその家族の計53人を人質として(当初は66人だが、女性や黒人は解放)、パフラヴィーのイラン政府への身柄引き渡しを要求しました。イラン政府もこの動きを支持しています。

 これに対し、アメリカのジミー・カーター大統領(1924年〜 )はパフラヴィーをパナマへ出国させることで事態の打開を図りますが、人質は解放されず、1980年4月に特殊部隊による救出を図ります(イーグルクロー作戦)。しかし、ヘリコプターの事故等で1機が墜落し、8名が死亡したことによって作戦は失敗。すなわち、イラン側に発覚したことで、イラン政府はさらに猛反発します。

 こうして事態は長期化の様相を見せますが、1980年7月27日にパフラヴィーが滞在先のエジプトで病死。イスラム法学校の学生らによる大使館占拠の根拠がなくなります。さらに、後述しますが9月にイラクがイランへ侵攻したことから、軍事資金を必要としたイラン政府は、アメリカによる金融制裁解除を希望したことから、一気に事件解決へ動きます。

 こうした中、カーター大統領(民主党)は同年11月の大統領選挙で共和党のロナルド・レーガンに敗北。その、レーガンが大統領の就任式が行われた1981年1月20日に、イランへの金融制裁の一部解除(アメリカにおけるイラン凍結資金の70%解除)を条件に、444日ぶりに人質全員が解放されました。

 さて、前置きが相当長くなりましたが、いよいよ本題に入ります。

イラン・イラク戦争

 さて、人質が解放される少し前の1980年9月22日、イラク軍がイラン西部へ侵攻を開始します。これが、イラン・イラク戦争、別名「第1次湾岸戦争」の始まりです。

 ちなみにイラクは1963年にバース党の党員である将校たちのクーデタで軍事政権が誕生し、1979年に大統領に就任したサッダーム・フセイン(1937〜2006年)は、自らの大統領就任に反対した勢力を一掃し、独裁体制を築き上げていました。

 フセイン大統領が戦争を仕掛けた理由は主に2つあります。
 1つは、イラクとイランの石油輸出にとって要所であるシャットゥル・アラブ川の使用権をめぐる争いです。1975年に両国で締結したアルジェ協定によって、川の東側(イラン側)から中央に国境線が変更されたため、これを奪い返すのが目的でした。ちなみにシャットゥル・アラブ川沿いにあるバスラは、イラク第2の都市。石油積み出し場として重要な港でした。



 もう1つは、イラクの国内事情として、少数派のイスラム教スンニ派が政権を独占しており、シーア派国家のイランによって、国内情勢が不安定化することを恐れました。

 こうしたことからフセイン大統領は
「今のイランは、まだ体制が整っていないので勝てる。革命の輸出を恐れる周辺国や欧米も反発しない。」
 と考え、1975年にイランとの間で結んでいたアルジェ協定という国境線の取り決めを一方的に破棄。

 こうして開始されたイラク軍の侵攻に対し、アメリカやヨーロッパ、それからソ連も支援。こうして緒戦はイラク軍の優勢で進行しましたが、シリアとリビア、さらにイラクを敵視したイスラエルがイランを支援。反撃の体制が整ったことにより、戦いは一進一退となり、互いの都市や石油精製施設を攻撃し合います。

 こうした中、1982年にはイスラエルが親イスラエル政権樹立のために、シリアの占領下のレバノンへ侵攻し、レバノン内戦が再燃。アメリカやフランスはこの対応に追われることになります。1986年には、アメリカと(イランを支援する)リビアが交戦し、さらにアメリカとイランも一戦交えたり、サウジアラビアがイランに断行を通告するなど、中東をめぐる情勢は混とん化する一方、ご覧のようにイランはシリアとリビアを除いて、多くの国を敵に回してしまいました。

 結局、1988年8月にイランとイラクは国連安保理による停戦を受け入れ、戦闘は終結しました。

 この8年にわたる戦争の結果、約100万人が死亡し、イラクの人口の3倍を擁するイランは、人海戦術を取り、大した武装もないまま若者を次々と戦争へ送り込み戦死させます。さらに、イランはイラク国内で反政府的なクルド人を扇動させ、これに対しイラクは彼らに化学兵器を使用して、大きな被害を与えるなど(イランによるものという説もあります)、悲惨な戦争となりました。

 そしてイランの指導者、ホメイニーは戦争終結の翌年、1989年6月に死去しています。

 さて、こうして8年にわたる戦争が終結し、結果的にイランの革命が周辺国に輸出されることはありませんでした。この点ではアメリカをはじめ、多くの国の思惑通りとなりましたが、軍事費を浪費しただけで得るものが無かったフセイン大統領としては、このまま大人しくしているわけにはいけません。

 そこで、湾岸戦争(第2次)に突入していくことになりますが、これについては90年代のコーナーにて。

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