第28回 1990年〜99年(2):湾岸戦争とオスロ合意
○フセイン大統領のクウェート侵攻
1980年代のイラン・イラン・イラク戦争が集結すると、フセイン大統領率いるイラクは、膨大な戦時債務に苦しみます。そこで、外貨獲得手段として頼りになるのが石油だったのですが、豊富な資源を埋蔵し、かつペルシャ湾への出入り口として目を付けたのが、クウェートでした。
要するにクウェートが手に入れば、石油資源も手に入るし、港も手に入って船での運搬がしやすくなる。しかも当時、石油輸出国機構(OPEC)の影響力が弱まり、石油需要の減少や非OPEC加盟国を含めた石油の過剰生産によって、原油価格が下落。こうしたことも、イラクの石油だけでは原油安競争に太刀打ちできない!と、フセイン大統領が考え、クウェートを手に入れようとした一因です。
加えて、これはフセイン大統領に限らず、既に1961年にイラクのカムセ大統領も主張していたことでありますが、クウェートはイラクのバスラ州の一部であると考えます。これは、元々はイラクもクウェートもオスマン帝国の一部だったのですが、1899年にクウェートを治めていたサバーハ家がイギリスの保護領となることを選択し、1961年に独立したものです。
このような背景から、フセイン大統領にしてみれば
「クウェートにイラク軍を派遣して何が悪い!」
という考えだったわけです。
こうして1990年8月2日、イラクのフセイン大統領は隣国のクウェートに侵攻を開始し、8月8日にクウェート併合を発表します。これに先立ち、クウェートの首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハはサウジアラビアへ亡命しました。クウェート軍もイラクの大軍を前に、大きな抵抗は出来ませんでした。
しかし国際社会はすぐに反応を示し、侵攻当日に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択。さらに8月6日に、国連の全加盟国に対し、イラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議661も採択します。それでも、フセイン大統領は「どうせ国際社会は何もできないだろう」と考え、クウェート撤退を拒否。そもそも、反イランのためにアメリカはイラクを支援しており、ソ連もイラクに多額の武器を供給していたのです。
ところが、11月29日、国連安保理は「1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しない場合、イラク軍を排除するために”必要なあらゆる手段を取る!」とした、決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択します。この決議、中国は棄権しましたが、なんとソ連が賛成します。これまでのように、米ソが対立して拒否権を発動・・・という状態ではなかったのです。
これがフセイン大統領にとって誤算になります。
○湾岸戦争
強硬姿勢を崩さないフセイン大統領に対し、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領(1924年〜 )は、アメリカ軍をサウジアラビアに展開するとともに、諸外国に呼びかけてイギリス、フランス、エジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦などから成る有志の国家で、多国籍軍を結成。アラブ諸国にとっても、フセイン大統領は脅威と映り、異教徒の国とは言え、アメリカに協力する選択肢を取りました。そして対イラク武力行使容認決議による撤退期限が過ぎたことから、1991年1月17日から多国籍軍はイラクへ空爆を開始します。一方、イラクはイスラエルを攻撃することによって、アラブ諸国を反イスラエルに巻き込もうと考え、スカッドミサイルをイスラエルに発射。
これがイスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出たことから、当然のことながらイスラエル世論は激高しますが、ユダヤVSアラブの戦いになることを恐れたアメリカはこれを押さえ、フセイン大統領の目論見は外れました。むしろ、これに先立ってPLO(パレスティナ解放機構)がイラク支持を表明したことから、これまでPLOに多額の支援をしていた、クウェートやサウジアラビアを怒らせ、資金援助を打ち切られてしまいました。
その後、イラクはスカッドミサイルでサウジアラビアなどを攻撃しますが、多国籍軍による空爆で軍事施設の多くが破壊され、クウェート駐留軍との連絡手段も遮断。2月24日からは多国籍軍による地上戦も開始されました。イラク軍は次々と降伏し、フセイン大統領も敗北を認めます。
結局、3月3日に暫定休戦協定を受け入れ、4月6日に停戦協定に合意しました。これによって湾岸戦争は終結しますが、この時点ではフセイン政権は存続し、この後もひと波乱あり、イスラム国の勃興といった大混迷状態に陥るわけですが、2000年代のコーナー以降で御紹介しましょう。
ところで、湾岸戦争の特徴の1つは、初めて生中継で戦争の様子が伝えられたことでした。
1月17日にイラクの首都、バグダードへ空爆が開始された模様を、アメリカのCNNが配信。現地とアトランタのCNN本社スタジオとの緊迫したやり取り、空襲警報の音や、映像に映し出される対空砲火の光の線は、現在進行形で戦争が進められていることを、多くの視聴者に印象付けました。
また、アメリカは湾岸戦争で新兵器を次々と導入します。軍用機としては、ステルス攻撃機として有名になったF−117、戦闘爆撃機F−15E、さらに兵器としては、トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾、対空ミサイル「パトリオットミサイル」、バンカーバスター地中貫通爆弾など、さらに、今ではすっかり生活の一部となった、全地球測位システム (GPS)も活用しています。
なお、「ニンテンドーウォー」とも呼ばれるほど、テレビゲームのように多国籍軍のミサイルがイラク軍の施設に命中する映像が公開されますが、それだけハイテク化が進んだ一方で、誤爆した映像は公開しないといった、宣伝戦も健在。ただ、これ以後は時に、軍事兵器のハイテク化が進み、遠隔操作による無人兵器も開発されていきますから、まさに戦争の在り方が変わっていくことになります。
一方、当時の日本は第二次海部内閣の時代でしたが、アメリカの要請に従って計130億ドル以上を負担。中東の石油に頼る日本としては、中東情勢の不安定化は避けたいところではあります。そうは言っても、当時は資金は拠出できても、人的支援については世論が激しく解れるところであり、法整備も不十分でした。
結果として、アメリカなどから「日本は金しか出さない」との反発を受けた上、クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議を出しますが、日本はその中に入っていませんでした。こうした国際社会の現実に、少なからぬショックを受けた人も多かったのではないでしょうか。
その後日本では、国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させるなど、少しずつ自衛隊による海外活動が可能になるよう、環境整備が進められていきます。
○中東和平への道
さて、イラクへの支持を表明したために窮地に陥ったのが、PLO(パレスティナ解放機構)です。クウェートやサウジアラビアからの資金援助を打ち切られ、財政的にピンチ・・・。一方で、パレスティナの人々はインティファーダと呼ばれる抵抗をイスラエル軍に続け、石を投げつける民衆を、イスラエル軍が武力で鎮圧するという構図は、イスラエルにとってもイメージが悪化するものでした。
そんな時に、イスラエルとの仲介に乗り出したのが、北欧のノルウェーでした。
折しも、イスラエル側も左派である労働党が政権を奪取し、イツハク・ラビン(1922〜95年)が首相に就任したところでした。
こうした状況下、1993年にノルウェーのホルス外相らが首都のオスロで、秘密裏にイスラエルとPLOとの間で和平交渉をまとめあげ、9月13日に、アメリカのビル・クリントン大統領が見守る中、ホワイトハウス前で、ラビン首相とPLOのアラファト議長との間で、次の合意が調印されました。
(1)イスラエルを国家として、PLOをパレスティナの自治政府として相互に承認。
(2)イスラエルは、入植した地域から暫定的に撤退。5年にわたって自治政府による自治を認め、この間にその後を協議。
これを、オスロ合意といい、1994年にパレスティナ暫定自治政府が誕生し、パレスティナ問題は新たな時代に。また、アラファト議長、ラビン首相、さらにイスラエルの外務大臣シモン・ペレス(1923年〜 )の3人は、ノーベル平和賞を受賞しています。
しかし、この動きを歓迎しない人たちもいました。1994年10月には、イスラム原理主義を掲げるハマスが、和平反対とアラファトの政治手法に反対し、イスラエルに対するテロ攻撃などを開始。PLOが汚職体質だったこともあって、ハマスは次第にパレスチナの人々の支持を集めていきます。
さらにラビン首相は、1995年11月4日に、イスラエルのテルアビブで開かれた平和集会に出席した際、和平に反対するユダヤ人の青年によって銃撃され、死亡しました。パレスチナ問題は、依然として出口が見えない状況です。
テルアビブのラビン首相暗殺現場
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