第8回 皆川周太夫・八王子千人同心と
蝦夷地調査物語

担当:大黒屋介左衛門

2.八王子千人同心


 その名の通り現在の東京都八王子市を中心に在住していた郷士です。 数名の千人頭の下10組にわかれ、その10人の組頭の下に100人の同心(注3)が配 されて、甲州街道沿いに置かれました。

 その前身は戦国時代の甲斐武田氏の遺臣を中心に構成され、徳川家康の関東入封の際、いまだ後北条氏の影響色濃い八王子周辺の治安維持と万が一居城江戸城が落城した際の逃走経路確保を目的に設置されたそうです。  千人同心の地位は幕府内でも非常に微妙でした。 千人頭は家格、禄高から言っても旗本クラスでした。しかし、旗本ならば御目見えが許 されてその際江戸城の所定の部屋で待機することとなりますが、土着・土豪のイメージ や半農半武の身分が他の旗本に忌み嫌われたのか、旗本の所定の部屋に入ることや将軍 の御目見えもたまたま通りがかったという形での謁見しか許されていませんでした。

 その下の組頭や平同心たちも姓を名乗ることなどがあやふやで下からは武士と見られ、上からは農民と侮られるというなんともしがたい存在だったのです。 この微妙な地位のおかげで彼らは江戸時代を通じて誤って旗本の部屋に入ってしまったり、人別帳(注4)に武士として姓を載せることを求めたりといろいろ騒動・事件を起こします。
 それでも彼らは武士としてや、神君家康公以来の自らの存在に誇りを持ち、日々の暮ら しや幕府からのお勤めに精一杯働きました。彼らの日常はほぼ農民と大差ないというか 本百姓として扱われていましたが、いざ事があるや忠誠と誇りを持って臨む姿はある意 味最も武士の原型に近い形だったのかもしれませんね。
 かくいう幕府の方はというと、これが薄情というか非情というか彼らを便利屋同然につかったようです。幕府の統治がまだ不安定だった江戸の初期は大坂の陣に参陣したり、辺境の反乱鎮圧に駆り出したりと、設置目的にかなった軍役を担い、ここまではいいのですが、体制が安定し太平の世を迎えると今度は将軍の警護役としてあちこち連れまわされたり、日光勤番(火の用心)を命ぜられたり、飢饉で予算不足の際のボランティアに使 ったりと彼らの純粋な忠誠心をいい事に、負債ばかり背負うこととなる仕事を押し付ける ようになります。さらに幕府は折を見て彼らのリストラをやってましたから、結構ひどいなと思います。
 さて先に述べたとおり幕府の安定とともに設置本来の目的である軍役は次第に影を潜め 、千人同心もその性格を変えていきます。彼らは生真面目な人が多かったのか太平の世に移ると昌平坂学問所の門をたたいて学問を修めたりして文化人として名を残す人が現れたりしたんです。それは飢饉の際に蓄財を供出した福祉事業家であったり、八王子と千人同心の実情を描いた日記を著した文人だったりです。

 もっとも、これらは生活の安定した千人頭のような彼らの上役がほとんどですがね。
 それはいいとして平同心はというと半農・半士といって実際は百姓そのものです。江戸住まいの旗本御家人たちは副業をみとめられていませんでしたから公然と副業に精を出す彼らをよく思ってなかったのかもしれませんね。

 また、彼らは家康公に甲州絹の売買権を与えられていたからこの特権を利用して結構な財をなすものもいて余計に旗本御家 人の気に障ったのかもしれません。 財を成し複数の同心株を手に入れるものが出る一方で没落するものも続出します。日光 勤番などは幕府からの給金も出ましたがそれだけではとても足りず借金に苦しんだり、一応の世襲は認められていたものの財産分与などには制限が加えられて次男・三男の身のふりに困ったり(学問や剣術に打ち込んだ人が多いのはこういった次男・三男の就職 対策もあったかもしれませんね)と、その人の器や世渡りの術でだいぶ違ったようですね 。
 ながながと蝦夷地と遠く離れた八王子千人同心の話をしましたが次章でつながります。
注3・・・もとは字のとおり志を同じくするという意味。戦国以降下級武士を指すよう になった。その上役与力も同様の字義である。
注4・・・町人たちの戸籍謄本のようなもの。寺社が管理した。平同心たちはここに自 分たちの姓を名乗ることを求めて訴訟を起こしたが、もともとこれは町人たちの為のも ので武士はここに入らないのが普通(だったと思う)。


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