5回 ナポレオンとロマノフ朝ロシア

●エカチェリーナ2世死後
 エカチェリーナ2世の跡を継いだのが、息子パーヴェル1世(位 1796〜1801年)です。しかし、馬鹿君主だったため、宮廷クーデタで暗殺されます。どんな馬鹿なことをしたか。それは主に外交です。

 この時代、ロシアはイギリス・オーストリア・プロイセン・イタリアと反フランス連合に参加していました。そしてロシアのスヴォーロフ元帥はロシア軍を率いてアルプスを越え、スイスでフランス軍を破るという大活躍。ところが、ルイ16世などが処刑されるなどしたフランス革命が発生し、その流れでナポレオンが皇帝の座に就くと、パーヴェルはナポレオンのファンになってしまいます。

 そこで、スヴォーロフ元帥に「あんたはもう用は無し」と、召還命令を出し、スヴォーロフ元帥は可哀想に失意のうちに亡くなってしまいます。そんなこんなで気まぐれ皇帝に対する不満が高まり、名門貴族ニキータ・パーニン外務参事会副総裁、ウィトースイギリス大使を中心にクーデター計画が発動。それは、パーヴェル1世を廃し、その息子で皇太子アレクサンドルを帝位につけ、立憲君主制国家を造る計画でした。ところが、さすがに皇帝に疑われ、パーニンは首都を追われます。

●アレクサンドル1世の時代
 ところが、せっかく助かったパーヴェル1世は、ナポレオンと同盟を結び、なんとインド遠征を試みます。ここにきて近衛部隊に殺害され、先ほどのアレクサンドル1世(位 1801〜25年)が即位しました。エカチェリーナ2世お気に入りの孫だった優秀な彼は、秘密委員会を組織し、若い友人達と共に国内の改革を実施。例えば・・・
 ・11の参事会をやめて、8つの省を設置
 ・大臣の合議体である大臣委員会を設置
 ・貴族の自発的な農奴解放を許可
 ・大学の設置
 といった感じです。
 また、アレクサンドル1世はナポレオンと手を切り、再びイギリス、オーストリア、スウェーデンとともに第3次対仏同盟に参加します。そのためナポレオンの侵攻を受け、07年のフリートラントの戦でナポレオンに敗北。ティルジット条約をむすび、イギリスに対抗してナポレオンに与する羽目になります。それでもこの間に、ロシアはオスマン・トルコ帝国からベッサラビアを、イランからグルジアを獲得しています。

 ところが1812年、ナポレオンはロシアの背信を口実に、大軍をひきいてロシアに遠征してきます。ロシア軍は焦土戦術、つまり自分たちの都市を焼きながら後退し、9月にはモスクワが陥落してしまいます。が、この焦土作戦がミソ。つまり、ナポレオン軍はどこの都市でも補給が受けられません。さらに、厳しい冬、冬将軍の到来で撤退。後のヒトラーのように、このロシア侵攻のミスでナポレオンは没落し、ナポレオン後を話し合う1815年の ウィーン会議&その後のウィーン体制で、ロシアは主導的な役割を果たすことに成功します。

 なおナポレオン戦争中、ロシアとヨーロッパの交流が活発となったため、ロシアの知識人(インテリゲンチャ)の間に自由主義的な政治思想が流布(るふ)していきます。彼らは、自分たちは西ヨーロッパより遅れていると考え、運動を起こします。その中で、後に社会主義者となる者、また世の中に絶望しニヒリズムと呼ばれる考えをもち、世の中を破壊しようとする者も登場します。ナロードニキと呼ばれる革命家集団もこの一派。彼らはテロによる要人暗殺も行いました。

●ニコライ1世
 アレクサンドル1世の跡を継いだのが、弟のニコライ1世(位1825〜55年)です。と、そこにデカブリストの乱という貴族将校の反乱が発生。反乱軍はロシア社会の開明化、立憲君主制、さらには共和制を求めました。

 ニコライ1世はこれを鎮圧すると、こうした革命・自由主義運動の取締のため、第三部と呼ばれる秘密警察と検閲政策を実施し、多くの知識人や作家を流刑にします。「罪と罰」で有名なドストエフスキーも、フランス社会主義理論研究が発覚し、処刑寸前にまでなり、直前で流刑に変更。シベリアで強制労働をさせられています。

 ニコライ1世はまた、南進政策を進め、オスマン・トルコ帝国と戦います。特にオスマン領のギリシャで反乱が起きると、1827年、イギリス、フランスと艦隊を組織し、ナバリノの海戦でオスマン帝国艦隊を撃破。引き続き1828〜29年のロシア・トルコ戦争(露土戦争)でも勝利をおさめ、オスマン・トルコ帝国にアドリアノープル条約を結ばせ、
 1.ロシアによるドナウ川の河口とカフカスの領有
 2.ロシアが、モルダヴィア自治州とワラキアを実質的に保護国とすること
 3.ギリシャの独立とセルビアの自治も保証させること
に成功しています。

 なお、ロシア・トルコ戦争はこれに限らず、17〜19世紀にかけてしばしば行われています。
 最初は、1677〜81年に勃発し、この戦いでロシアはドニエプル川以東のウクライナに対する支配権を獲得しています。ちなみに、ピョートル大帝が即位するのが1682年で、彼もトルコと戦っています。さらに、後に登場しますが、クリミア戦争もこの一環です。基本的に、南下をしたいロシアと、その先にあるオスマン・トルコ帝国・・・。戦うのは必至だったんですね。まあ、それぞれの事例ごとで見ていけば色々な原因はありますが・・・。

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