6回 農奴を解放したアレクサンドル2世

●クリミア戦争
 ニコライ1世の次が、その息子のアレクサンドル2世。1818年の生まれ。強烈な性格だった父親と対照的に弱い性格の彼は、クリミア戦争のさなかに死んだ父に代わり、1855年に即位します。

 と言うわけで、さっそく登場しました。
 クリミア戦争というのは、イギリス、フランス、オスマン=トルコ帝国、サルデーニャ王国の4カ国連合とロシアとの間でたたかわれた戦争(1853〜56年)です。サルデーニャは、後にイタリア半島を統一する国家。

 事の発端は52年12月オスマン・トルコ帝国のスルタン(まあ、王様ですね)が、ナポレオン3世率いるフランスの圧力に屈してカトリック教会に、オスマントルコ帝国領の、パレスティナにある聖地管理に対して有利な決定をしたたこと。

 これに対し、東方正教会はオスマン帝国に対し、オスマン帝国領内のギリシャ正教徒の権利を保障する条約をむすぼうとします。ところが、イギリス、フランスは
 「それは、オスマン・トルコ帝国への主権の侵害です。ロシアの言い分を聞く必要はありません」
 と、(よくもまあぬけぬけと)オスマン・トルコ帝国に圧力をかけ、要求を認めるべきではないです、と説得。

 これに対し1853年10月、ロシア側はオスマン帝国領で、バルカン半島にあるモルダビアとワラキアを占領。オスマン・トルコ帝国は、イギリス・フランスの支援でロシアに宣戦を布告します。最初、11月のシノペ湾での海戦ではロシアが勝利しますが、サルディーニャ王国が、イギリスとフランスに恩を売るために参戦。結局、ロシア側が敗北&撤退を始め、55年9月にはロシア最大の要塞セバストポリが陥落。アレクサンドル2世は、56年3月、パリ条約を結んで講和をせざるをえませんでした。

 ちなみに東方正教会とは、ロシアにおけるギリシャ正教会のことですが、この時代には既に大幅な独自性を強めていました。

●アレクサンドル2世の改革
 何故負けたのか。そうか、国内体制が悪いんだ!
 というわけで、アレクサンドル2世は、これは国内の改革が必要だと考えます。

 インフラである道路や鉄道の整備、それから行政機構の改革など、色々やらねばならないことはありましたが、何が一番問題かを考えれば、未だに中世ヨーロッパの封建制のごとく、農民が奴隷のように大土地所有者に縛られこき使われている農奴制が悪いという結論に達します。

 そこで、1861年に農奴解放令を発布。ところが、発想は良かったのですが、自由になった農民に土地はほとんど与えられず、領主がもっていた土地は領主の物のまま。これを農民が購入しようとすると、地代の約16.67倍を払わねばらならず、とても買えるような金額ではありませんでした。そんなわけで、結局解放されても行き着く場所がないのですから、以前のままの状態になりました。

 また、アレクサンドル2世は身体刑の廃止、地方自治の確立、司法制度や教育制度の改革を実施。さらに国民皆兵の制度をつくり、警察制度も改善させます。この結果、1877〜78年のロシア・トルコ戦争では大勝利をおさめ、オスマン・トルコ帝国を屈服させサン・ステファノ条約が調印されます。

 これにより、オスマン・トルコ帝国下にあったバルカン半島で、ルーマニアなどの多くの国々が独立します。ただし、ロシアの権益拡大をおそれるイギリスと、オーストリア=ハンガリー二重帝国(ハプスブルク帝国)は圧力をかけて、ロシアの権益を縮小させています。

 具体的には、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの斡旋(あっせん)で1878年6月、ベルリン会議をひらき、サン・ステファノ条約を修正して、ブルガリア公国の領土を縮小させることで、バルカン半島におけるロシアの影響力を制限したのです。

 このような中、当時のロシアでは、社会改革をめざす都市の知識人が「ブ・ナロード(人民のなかへ)」の標語をかかげて農民に社会改革のための教育をしますが、農民側は忙しいのに余計なお世話よ!と無視。これに絶望した知識人達はテロを開始。なんと1881年3月、アレクサンドル2世はこうした連中によって暗殺されてしまいました。

●改革の反動
 すると息子のアレクサンドル3世(位1881〜94年)は、父親と対照的な政策をとり、早速「臨時措置法」を発布。疑わしい人物の投獄、追放、出版の検閲を容易に出来るようにします。また、大学例によって大学の自治も大幅に削減。また、民衆なんて教育しない方がいいというわけで、初等教育も軽視。おかげさまで、ロシアの文盲率は80%になりました。

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