7回 最後の皇帝ニコライ2世とレーニン達
●ニコライ2世の即位 |
ちなみに即位の3年前、ニコライは日本を訪問し、滋賀県大津市で巡査の津田三蔵に斬りつけられるという、大津事件に遭って負傷してしまいます。そのため、その後予定されていた殆どの仕事をキャンセルする羽目に。ただし唯一、欧米と対抗すべく造るシベリア鉄道の起工式@ウラジオストクには、威信がかかっているので参加しています。
日露戦争勃発の要因の1つとなった遼東半島。 (撮影:mustafa様) |
また1894年(明治27)7月〜95年4月、日本と中国の清が戦争し、清が敗北(日清戦争)。この時日本が清から割譲させた遼東(リャオトン)半島をめぐって、ウィッテはドイツ・フランスと手を組み日本に圧力をかけ、遼東半島獲得を日本に断念させ、代わってロシアが中国から租借することに成功します(三国干渉)。しかしこのため日本国民に、「ロシアめ、今に見ていろ・・・」という臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の念を植え付けてしまい、のちに日露戦争へとつながる要因の1つとなります。いなみにウィッテは、その日露戦争後のポーツマス講和条約締結時に、ロシア側全権代表を務めたことでも有名です。
●レーニンと社会主義者達 |
また1896年、首都の綿業労働者達は労働時間を10時間30分に短縮する法律を定めろとゼネストが起こります。その結果、要求は完全には認めら得ませんでしたが、翌年に11時間30分に短縮する法律が誕生します。そのほか、レーニン、マルトフ、プレハーノフらは、国外に出ると新聞「イクスラ」を刊行。さらにそのほか、ナロードニキ(エスエル党=社会革命党、テロの奨励&農民社会主義を目指す)や農民達による政府要人殺害も起こりました。文部大臣ボゴレーポフや内相シピャーギンがその標的となりました。
そして1903年夏。
バクーで始まったストライキは南ロシアに波及。この中で政党の結党も進み、同年、レーニンらによるロシア社会民主党が、その第2回大会で正式結党されます。ところが、早速内部で路線対立が起こります。それは、レーニンが労働者(プロレタリアート)からなる職業革命家によって、つまり精鋭で革命を起こそうと主張するのに対し、プレハーノフらは中産階級(ブルジョワ)と強調すべきだという2つの路線です。
レーニンの方が多数派で、この派閥をそのまま直訳でポリシェヴィキ(多数派)、プレハーノフらをメンシェヴィキ(少数派)と言います。路線対立は第1次世界大戦まで続きました。
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