2回 古代〜約10世紀の大陸部諸国家(1)北ヴェトナム
●東南アジアの古代 |
さて、中国では紀元後に近づくにつれ国家が登場してきますが、紀元前の古代の東南アジアは、いわば首長を中心とするムラ社会が多数ある状態で、なかなか国家と呼べるものが出ては来ていません。
で、今回は10世紀までに出来た王朝を中心に見ていきましょう。
●北ヴェトナム地域 |
最も最初に登場したのは北ヴェトナムの南越という国です。越はヴェトとよびます。ただし、この国は、始皇帝で有名な秦の地方官であった趙佗が秦の滅亡に乗じて独立建国したもので、東南アジアの人達によるものではありません。
そして南越は、秦の次にに中国の覇権を握った漢によって滅ぼされます(前111年。武帝の時)。こうして漢は北ヴェトナム地域を支配します。そして、交趾、九真、日南などの郡を置きました。日本でいえば県みたいなものです。なお、中国で県といえば日本の市に相当します。
ところが、この時の漢の統治が圧政だったといわれています。そのため、40年に徴姉妹による反乱が起きます。徴姉妹とは現在のハノイ西方の土着首長の娘、徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニー)の姉妹のことです。そして、彼女らが反乱を起こすと瞬く間に反乱参加者が増え漢の勢力を追い出します。徴側は即位し、麓令を都に定めます。
しかし42年、漢は将軍の馬援率いる軍団を派遣。そして反乱軍は大敗北を喫し、翌年徴姉妹は処刑され再び漢の支配に戻されます。そして、中国の王朝が交代することがあっても基本的に1000年にわたり中国の支配を受けることになりました。
なお、反乱のもう一つの原因として漢の郡県制という、役人による組織支配がヴェトナムの首長社会に馴染まなかったともいわれています。
7世紀には唐がこの地に安南都護府を設置。都護府があったのは、現在のヴェトナムの首都ハノイです。この都護府には、唐に使えていた日本人、阿倍仲麻呂(中国名:朝衛)が鎮南都護や節度使として赴任していたこともあります。阿倍仲麻呂は、玄宗皇帝のお気に入りで、詩人の李白とも親交のあった人物です。実は、日本に帰ろうとして、この地に船が漂着したのでした。770年、長安で没しています。
そして、唐が滅亡した後、中国の広東地域に拠った地方政権「南漢」の支配を受けますが、939年呉権(ゴ・クエン)がこれを追い出し、王を自称。ついに独立します。しかし944年に彼が死ぬと部族間で抗争が始まります。
そして、それを最終的に統一したのが丁部領(ディンボリン)です。丁部領は大コ越国(ダイコヴェト国 コの字はでません。説明もしづらい・・・。曜日の曜から日偏をのぞいた感じか。右上の部分は貝×2だけど)を建国。都をデルタ地域西方の華閭(ホアル)に定め、王となります(位968〜979年)。
しかし、彼は息子と共に暗殺され、その部将の黎桓(レーホアン)が即位(位981〜1005年)。この時、中国を支配していた宋が侵攻してきますが、これを撃破。ここに北ヴェトナムの独立を確立するのです。また、黎桓は南ヴェトナムにあったチャンパー(下記参照)にも積極的に侵攻しています。
ただし、彼の王朝は不安定だったようです。彼が死ぬと、部将の李公蘊(リー・コンワン 太祖 位1009〜28年)がこれを乗っ取り、国号を大越とします。大越という国号はその後も使われたので、彼の王朝は李朝と称されます。都は昇竜城(タンロン)、すなわちこれも安南都護府と同じく現在のハノイです。この後はまた次回で見ていきましょう。