5回 ヴェトナム〜大越国〜の歴史
●大越国の成立 |
大越の越はヴェトと読み、またこの越は、中国古代の春秋・戦国時代にあった越に由来します。元来、ヴェトナム人達は中国の華南地域にいたのでした。
それが、南下してきたわけです。大越という国号は、王朝が変わっても19世紀まで使用されます。
で、この李朝は中国の宋(960〜1127〜1279 北宋・南宋)の侵攻を受けますが、これを撃退。そして、宋が南に遷都して成立した、南宋とは安南国王の称号をもらい、仲良くしています。
しかし、この李朝は伝統的なヴェトナムの豪族の勢いが強かったこと、それから農民に多大なる税をかけたうえ自然災害も発生。さらに1209年から宮廷内部の争いも起き、しかも暴動も起きます。こうした混乱の中、外戚の陳(チャン)一族によって廃されます。
●陳朝 |
ところが、日本で鎌倉幕府が滅びたように、陳朝も大きく力を失います。そして、やはり農民に多大なる税負担をかけたことから一揆が発生。1400年、官僚の胡季リイが帝位を奪います。
この胡季リイは、荘園制や、それまでのヴェトナムや東南アジア地域で当然だった、奴隷制度の制限をはじめ、大胆な改革を推し進めますが(詳しくは後述)、明の侵攻を受け、捕まってしまいます。そして、しばらく明の支配が続きます。
●黎朝 |
これに対し、黎朝を再興せよと阮(グエン)氏と鄭氏が、莫登庸を倒し、黎朝は再興します。
しかし、両雄並び立たず。
ハノイに鄭氏政権が、
中部のフエには阮氏政権が割拠して抗争をくりかえし、黎朝の皇帝は実権を失います。
この争いは、キリスト教布教と富を求めたヨーロッパ勢力の策謀で対立があおられ、激化したのでした。そして最終的に黎朝大越国は、18世紀のタイソン(西山)党の反乱によって滅亡しました。これは、特権階層の支配に激怒した農民による反乱です。詳しく言えば、ヴェトナム中部クイニョンのタイソン(西山)村で、グエン・バンニャク(阮文岳)、グエン・バンルー(阮文呂)、グエン・バンフエ(阮文恵)という三兄弟が指揮した反乱。
彼ら西山党によって、阮氏も鄭氏も両方とも政権は滅亡。西山党がヴェトナムを統一しました。最初は、黎朝のティエウトン(昭統)帝を認めていましたが、1787年、阮文岳が皇帝に即位(タイソン朝)。阮文呂をサイゴンを拠点とする東定王に、阮文恵をフエを拠点とする北平王に任命しました。
と、そうなるとティエウトン(昭統)帝も黙ってはいられない。中国を支配していた大国「清」の乾隆帝に救援を要請。これは受諾され、救援軍が派遣されます。しかし1788年に来た救援軍は、翌年フエ王・阮文恵によって撃退され、乾隆帝は彼を安南国王として認めます。
おや・・??ヴェトナムの皇帝は阮文岳のはずです。しかし、清が(国王)として認めたのは阮文恵。何故なら、彼は清の軍隊が侵入してきた1788年に皇帝を名乗っていたのです!!。当然、三兄弟に不和が生じます。
こうして国力は弱体化し、阮文恵が亡くなると、かえってさらに状況は悪化します。ここに、昔のフエのグエン政権の生き残りのグエン・フック・アイン(阮福映)が反乱を起こし、タイソン朝は1802年に滅亡しました。ザ・ロン帝(嘉隆帝)としてグエン朝(阮朝)を開きます。最初に滅亡したのは、阮。滅ぼした側は阮(タイソン党)。さらに、復興したのも阮。紛らわしいですね。
ところが・・・これは本来また今度の話なのですが、この時反乱に協力し、義勇軍を組織したのはフランスのキリスト教関係者。フランスの貿易拡大と、キリスト教を布教するため、彼に協力したのです。しかし、嘉隆帝もその後継者もフランスの力を警戒し、フランスに有利な計らいは何もしません。
どころか、宣教師が殺されるようになります。そこで、フランス国王ナポレオン3世は一気に軍を派遣し、領土を割譲させ、保護国化に向けて動き出します。この後は、現代史で。ちなみに、この時代のヴェトナムで特筆される出来事は、商人階級が登場したことです。それは、この地域がヨーロッパにヴェトナム産の香辛料、中国の陶磁器の輸出などの貿易を行い力をつけてきたのでした。
次のページ(第6回 ミャンマー・ビルマの王朝史)へ
前のページ(第4回 11〜18世紀の東南アジア史概論)へ