6回 ミャンマー・ビルマの王朝史
●パゴダが大好きなパガン朝 |
しかし中国の雲南省あたりにあった南詔国がピュー族の王朝を滅ぼしたことで、ビルマ族が有利になりました。そして、アノーヤターという人物がこのパガンを建国し、モン族を捕虜として連れ去り、そして歴代の王がミャンマー全域を征服したのです。
そして、モン族の文化と上座部仏教を取り入れ、この仏教は他の東南アジア諸国に広がることになります。モン族の文字を元にビルマ文字も出来ました。
3代目の王チャンシッターの時が最盛期。この王は、ビルマ族とモン族の融和にも腐心します。また、アーナンダー寺院というビルマ最高の仏教建築を建造させます。
しかし、その後の王もこれにならい仏教寺院(パゴダ)を多く建造しすたため、国家財政は大きく傾きます。そればかりか、王自身が僧院で過ごすという愚行を行います。とうぜん反乱も相次ぎます。そんな中、元が東南アジア支配を目指し侵攻。1287年、服属という形ですが、事実上滅亡してしまいました。なぜならタイ系民族のシャン人が実権を握り、そして1364年には滅亡させ、さらに下ビルマではモン族が独立したのです。
こうして、
上ビルマは(混乱期があるものの)基本的にシャン人による支配(アバ朝。1364〜1555年)、
下ビルマはそれに先立ちモン人が勢力を盛り返し、ペグーを拠点とするペグー朝(1287〜1539年)
の支配が行われます。
このうちアパ朝は元の5度目の侵攻を追い返し、覇権を確立するのですが、しかし内部争いに終始します。
ペグー朝では、ワレル王(位1287〜1296年)による法典、「ワレル・ダンマタ」が編纂され、その後特にタイにおいて影響を与えます。また、その後も賢王が続き、元の後中国を支配した明との通商で発展します。また、ポルトガル人がマルタバンという地に商館を開設。ヨーロッパとの通商も行われます。
象牙、宝石などは輸出され、ヨーロッパからはビロードが、中国からは磁器や香料が、インドからは織布が輸入されます。1452〜59年には、ビルマ史上唯一の女王、シンソーブも誕生しています。こうして、栄華を極めますが、上座部仏教の平和的な教えもあり軟弱化していきました。
●タウングー朝 |
しかし、度重なる出兵は民衆の疲弊と不満を招き、さらに飢饉も起こります。そのため、息子で第3代のナンダバイン(位1581〜99年)のとき王朝は解体してしまいました。しかし、ナンダバインの異母弟ニャウンヤン(位1599〜1606年)が即位を宣言。以後を第2次タウングー朝またはニャウンヤン朝ともいいます。
1635年、モン人の多いペグーからインワ(アバ)に首都を遷します。どうやら、この頃ポルトガルが、マレー半島のマラッカを占領したことにより、貿易上のビルマ利権が必要なくなり撤退したことから、都市が衰退したためのようです。しかし、これによりモン人の離反を招きます。そして、1752年にモン人はインワを陥落させ、滅亡させました。
しかし、ビルマ族も反撃に出ます。アラウンパヤー(1714〜60年)に率いられ、ビルマ族はミャンマー最後の王朝となるコンバウン朝(1752〜1885年)を建国。アラウンパヤー朝ともいわれます。そして、アラウンパヤーは、モン軍を撃破し、下ビルマの聖地ダゴンを「敵(ヤン)の撃滅(ゴン)」にちなんでヤンゴンと改称し、首都にしました。ヤンゴンは、今もミャンマーの首都です。また、これ以後モン族の国家は誕生していません。ちなみに、この王朝は、タイにあったアユタヤ朝シャム王国を滅ぼしています。
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