7回 スコータイ朝とアユタヤ朝
●スコータイ朝 |
そんな中、理由は不明ですが、中国南部やヴェトナム東北部から、11世紀頃より少しずつ南下してきた民族があります。それが、タイ族と総称される人々です。彼らは、ラオスやチャオプラヤ川周辺などに個別に移住し、小王朝を建国してゆきます。例えばラオスではランサーン王国が建国されました。
また、北部タイにおいては、アンコール朝の衰退に乗じ、チャオプラヤ上流のスコータイの太守を追い出して、スコータイ朝をはじめとする小王国が建国されます。
このスコータイ朝は、地図でよく解るように東南アジア内陸部の中央に位置します。そのため、東からも西からも文化の影響を受けました。特に影響を受けたのは、やはり元々この地を支配していたアンコール朝からで、政体などはここから制度を取り入れています。
また、ビルマからは上座部仏教も伝わり、寺院建築や仏像作りが盛んになりました。今でも仏教はタイの人達の生活の基本ですね。
さて、このスコータイ朝の最盛期を作り出したのが、第3代王のラームカンヘン(位1279頃〜99年)です。領土は、現在のタイの東国境を形作るメコン川、そして西はマレー半島のリゴールまで広げます(もっとも武力征服より、服属という形での併合が主だったようです)。
領土だけではありません。この時代の碑文は、王のことを「金持ちや貧乏人、庶民に王族、貴族問わず公平に裁判をした」とか、やはり「身分を問わず、財産相続を公平に行った」とか「自国を王の保護国にしてくださいと申し出た者には、滞在中にその人の国と同じような生活をさせてあげた」などと、最大の讃辞を述べて書かれています。どこまでが真実かは解りませんが、そういった施政が、最盛期を作り出したのでしょう。
ところで、この碑文はタイ文字で書かれています。タイ文字は、まさにこの時期、クメール文字を参考につられたのでした。
しかし、この王の後継者達は凡庸で、次第に勢力は後退します。また、スコータイ朝は、小国家の宗主国のような存在だったようです。 そのため、スコータイに代わる宗主国が求められ、1350年、チャオプラヤー川下流域より発生した同じタイ族のアユタヤ朝に取って代わられました。王国は、アユタヤ朝の下でその後も存続しますが、しかし1438年には1つの州として完全に併合されてしまいました。
ちなみに、タイ人はすべて現在のタイにいると思われがちですが、その周辺各国においては少数民族として存在し、全部で8000万人ほどいるといわれています。