7回 スコータイ朝とアユタヤ朝

●江戸時代初期の日本とも交流のあったアユタヤ朝
 アユタヤ朝は、日本史を勉強していても登場する王朝です。何故かといえば、首都アユタヤの日本人町と、この地で活躍した山田長政がとても有名ですから。日本人だけでなく、この国では外人勢力が大変活躍しています。何故なら、王様が寛容だったから。
 さてアユタヤ朝は、1350年にラーマティボティ1世(位1350〜69年)による建国が始まりです。首都アユタヤは、現在のタイの首都、バンコクの北60kmの地点にあります。

 建国されるや否やこの国は、いきなりスコータイ朝をはじめとする周辺国家を支配下に組み入れ、さらにアンコール朝クメール王国に対して繰り返し侵攻。このような中で、アユタヤ朝はクメール人官僚やその下で働いていた人を登用し、クメール的な統治方法を学習していきます。特に学んだのが、農民からの税の取り方だとか。

 そして1432年には、アンコール朝はアユタヤの侵攻に耐えきれず、現在の首都プノンペンに遷都します(この後首都は転々となる)。アンコール朝としてはこれで終わり。以後は、ただクメール王国とよばれます。ちなみにカンボジアとよばれるようになるのは、15世紀にポルトガル人が、当時の国王の名を国名として紹介したから。以前も話しましたね。

 余談ですが、ここの王家は現在も続いていて、今の王はシアヌークです。ポル・ポトとの1件で有名ですね。
 さて、アユタヤ朝は大交易国家として発展。インドネシアのスマトラ島にあったアチェ王国(15世紀〜1903年)や日本をはじめ、ヨーロッパ各国とも通商関係を持ち、後にオランダには、ハーグに大使を派遣しているほどです(1609年)。ちなみに現在のハーグは、オランダ第3の人口をもつ都市。国際連合の国際司法裁判所があります。その他、歴史的には朝鮮国王が日本による植民地化を訴えた、ハーグ密使事件でも有名。ああ、話がずれましたね。

 そんなアユタヤ朝ですが、1569年にビルマのバインナウン王率いるタウングー朝軍が侵攻。目的は、裕福なこの地の獲得と、奴隷の確保です。ちなみに宣戦布告理由は、仏教徒の象徴である「白象」の所有権を争うとのこと。ウソ100パーセントですな。アユタヤ朝はこれに敗北し、町は徹底的に破壊され、民衆は捕虜となって連行されました。こうして18年間にわたりアユタヤはタウングー朝の支配下におかれます。

 ところが、タウングー朝は後継者問題が発生。そのため、アユタヤにまで手が回らなくなりました。

●アユタヤ朝の復興と外人
 1571年、捕虜になっていたアユタヤ朝の王子ナレースエンは帰国を許されます。好機到来。アユタヤ朝は、数度にわたる戦争の末、独立します。当然、ナレースエンは王に即位(1590〜1605年)。そして、彼の対外政策(ビルマからベンガル湾を奪い、インド洋交易を支配下におく)の成功で、再び交易国家として発展します。米、香木、材木、象牙、スズなどが主要輸出品ですな。

 日本人、中国人、クメール人、オランダ人といったを外国人達は、自分たちの町を作ることを許されます。この町を「バーン」といいます。ここでは、大幅な自治が認められていました。また、最初に述べたように外人でも政府(というか王様)に登用されました。特に、ポルトガル人砲撃部隊「フラン・メンプーン」は傭兵として大活躍。

 また例えば、日本人では山田長政が重用されて活躍しました。日本人兵「クロム・アーサー・ジープン」を率い、各地で戦果を挙げます。彼は日本に使者も送っています。以下、ちょいと百科事典から抜粋。

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 江戸前期にシャム(タイ)で活躍した日本人。1621年(元和7)シャムが日本へ使節をおくった際、手紙や贈り物をことづけて両国の親善をはかったというシャムの高官山田長正とされるが、その実像は明らかではない。のち伝説も多く生まれたが、オランダ東インド会社アユタヤ商館長のしるした資料によれば、次のようにかたられている。

 駿河国沼津で領主の駕籠(かご)かきをしていたが、1611年(慶長16)ごろ一旗をあげようと、密航同然の飛び乗りで朱印船にのってシャムにわたった。やがて、その才気から王都アユタヤにつくられていた日本町の長となり、日本人をひきいて内戦などにも活躍し、国王の信頼をえてシャムの最高官位についた。28年の国王の死後の内乱にも力量を発揮したが、日本人の影響力を排そうとした実力者によってリゴール地方の総督職に左遷され、同地での戦闘で負傷したとき、傷口へ毒薬をぬられて殺害された。

("山田長政" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) 1993-2000 Microsoft Corporation. All rights reserved.)

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 この後、江戸幕府の鎖国政策もあり日本人町は衰退します。ただ、日本との交易は中国(この時代は清)を経由する形でその後も続いたとか。そう考えると、この鎖国政策という表現はおかしい。貿易制限政策とするべきでしょう。

 あと、日本史では出てこない話ですが、ナライ王(位1657〜1688年)は中国経由の対日貿易を独占しようとして、オランダの怒りを買います。そのため、結局オランダに譲歩し、ここに対日貿易がオランダに独占されることになるのです。

 このオランダに対抗するため、という訳だけではありませんが、おそらく勢力均衡を図ったのでしょう。ナライ王はルイ14世統治下のフランスに接近します。う〜む、考えることがすごい。1680年、フランスはアユタヤにインド会社の商館を建設します。また、こういった外交政策に活躍したのがギリシャ人コンスタンス・フォルコーン。元イギリス東インド会社の社員ですが、語学に堪能で、タイにいたところをナライ王に登用されたのです。ちなみに、奥さんは日本人とタイ人の混血の人。

 ちなみに、当然のようにフランスはカトリックも布教を開始します。ただ、ナライ王に何度改宗を迫っても断られてしまっています。このため、フランスとの関係は次第に悪化してゆきました。

 その後、アユタヤ朝はナライ王のような人物は出ず、また外国排斥の動きも起こり、さらに宮廷の中で争いもおき衰退してゆきます。そして、ビルマでは混乱が収拾したことから、再びアユタヤに侵攻。1767年、コウバウン朝ビルマの2代国王ナウントージは、アユタヤを壊滅させました。それにしても国際色豊かな政権ですね。

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