8回 東南アジアのイスラム化とヨーロッパ

●新マタラム王国

 さて、先ほどマタラム王国が登場しました。これは、オランダと覇権を争います。というのも、パタヴィア(今のジャカルタ)にオランダが東インド会社の商館を作っていたからです。第3代スルタン・アグン(1613〜45年)は、28年、29年の土に渡り侵攻しますが撃退され、それどころか自分の領内で反乱や王位継承戦争が起こってしまいます。

 そのため、オランダがこれに介入してくるようになり、領土を割譲するハメになってしまいました。第1次〜第3次にわたるジャワ継承戦争で、事実上オランダの保護下に入ってしまい、1755年、ジョクジャカルタとスラカルタの2つの王国に分裂してしまいました。



●スペインのフィリピン占領
 ところで、最後にスペインと東南アジアの話もしなければいけませんね。
 スペインは大航海時代が始まると、コロンブスに代表されるようにアメリカ方面に進出します。しかし、それからさらに太平洋を越え、マゼラン率いる一行がフィリピン諸島に上陸しました。1520年のことです。

 当時フィリピン諸島は小国の首長達が争っていたのでしょう。マゼランは、セブ島の首長ラジャ・フマボンと友好を深め、他の首長達に対し、彼に従うように要求します。しかし、そんなよそ者の言うことなんか聞けるか!とマワタン島の首長ラプラプはマゼランに戦いを挑み、白兵戦の末マゼランを戦死させました。

 残った乗組員達は、慌てて撤退。そして、北マルク(モルッカ)諸島で香料を積み込み、また長い航海の末にスペインに帰還します。出発時237人中18人しか帰還できなかった航海でしたが、この18人が世界を初めて一周したことになります。

 1542年に、スペインはここを国王フェリペ2世に敬意を表し、フィリピンと名付けます。そして、それから南アメリカの征服が一段落ついた後の1565年。スペインは、総督にレガスピを任命し、セブ島に植民地を建設します。それから1571年には、彼はマニラを建設。ここを拠点に定めました。

 フィリピンは、ここを支配するにあたり、カトリック系のキリスト教の布教に努めます。アウグスティヌス会、ドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会などのローマ・カトリック教会のさまざまな修道会がここに進出し、布教活動を競って行います。キリスト教は、フィリピン人を同一の宗教というベースにおくことに成功し、また聖職者達は広大な土地を所有し大きな力を持つことになります。

 もちろん、これに対し住民の反乱も起こっています。また、イギリスは1762〜64年に一時的ですがマニラを占領しています。少し先の話になりますが、1892年より住民達は大規模な反攻作戦に出ます。これは、革命軍側の武装解除とスペイン側の賠償金支払いで和解。

 ところが、1898年にアメリカがスペインを破り、ここを占領してしまいます。スペインも手のかかる植民地を手放そうとこれを売ってしまいました。こうして、フィリピンはアメリカの支配下に置かれることになるのです。

 ちなみに、キリスト教を広めたスペインでしたが、ミンダナオ島はイスラム教が根付いていたため、これを改宗させるのは無理でした。そして、これが今のフィリピン内におけるイスラム教徒の独立運動につながっています。

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