第3回 メソポタミア初期国家の成立と興亡
○今回の年表
前3400年 | メソポタミアのウルク朝が、文字を使い始める。また、都市を形成。銅器の使用。 |
前2650年 | エジプトで古王国の誕生。前2635年には、階段ピラミッドを建設。 |
前2500年 | このころ、北イラクにアッシリアが建国される。 |
前2371年 | アッカドのサルゴンが、シュメール系諸国家を征服しメソポタミアを統一。 |
前2230年 | アッカド王国の滅亡。 |
前2111年 | ウル王ウルナンムが、メソポタミアを再統一。法典の編纂を行う。 |
前2040年 | メンチュヘテプ2世が、100年ほど前から分裂していたエジプトを再統一。中王国時代。 |
前1792年 | バビロニアでハンブラビ王が即位。ハンブラビ法典の編纂。 |
前1894年 | アモリ人がバビロン第1王朝(バニロニア)を建国。 |
前1750年 | 小アジア(トルコ地域)に、ヒッタイト人が国家を造る。 |
前1595年 | ヒッタイトがバビロン第1王朝を滅ぼす。 |
前1552年 | アアフメス1世が、異民族ヒクソスを追い出して、エジプトの新王国時代が始まる。 |
前1365年 | アッシリアがミタンニ王国から独立。 |
前1364年 | アメンヘテプ4世(イクナートン)即位。宗教改革の開始。 |
前1286年 | カディッシュの戦い。エジプトのラメセス2世が、ヒッタイトと交戦。 |
●シュメール人 |
では、そろそろ国家間の動き。
実を言うと、いったいどこを発祥とする人達か解らないシュメール人ですが、とにかくティグリス・ユーフラテス川流域に多くの都市国家を造り、前2800年〜前2400年頃、都市国家同士で争っていました。 その中で代表的なのが、くどいようですがウル、ウルクです。
前2360年。ウルク王ルガルザゲシ王が、メソポタミアをほぼ統一しかけます・・・ ところが!南メソポタミア北部からセム系遊牧民族アッカド人を率いるサルゴン王が、これら諸国家を一気に征服!!アッカド王国を建国し、官僚と強大な軍事力でメソポタミアを支配します。
しかし、この王が死ぬと突然衰退。また元の都市国家が独立していき、それから200年が過ぎ、前2111年。
ウル王ウルナンムがメソポタミアの再統一に成功します。これをウル第3王朝と言いまして、やはり官僚と軍事力を整備。のみならず、この王は「法典」というものを整備し、規則をまとめます。
しかし、前2003年頃、エラム人とセム系のアムル人連合軍の前にシュメール人国家は滅び、歴史の表舞台からほぼ姿を消しました。そして前1900年。皆さん名前は聞いたことあるでしょう、アムル人がバビロン第1王朝を建国します。
●バビロニア王国 |
しかし、なんと言ってもバビロニア王国第6代のハンムラビ王の力が強大で、この近辺を巧みな同盟政策などにより各都市国家を撃破し、ペルシャ湾からシリア地域まで、メソポタミアを統一します。
何でそんなに強かったというと、やはり中央集権体制がしっかり整えられたからです。地方官僚に対し、書簡のやりとりをすることで詳細な報告を受け取り、また指示を与え、さらに監視役として巡察使を派遣し、さらに産業の発展のため道路の整備、灌漑設備の強化を行います。そして、その中で最も有名な業績がハンムラビ法典です。民法、刑法、民事訴訟法(訴訟の手続)、税法などが282条から雑多に混じって成り立ち、「目には目を、歯には歯を」でお馴染みで、刑法の部分は徹底的な復讐法という形になっています。
ただし、身分によって相手に復讐できる権利は変動します。なお、身分は貴族、自由民、奴隷の3つ。ただし、この法律が実際には施行されたかは・・・不明らしいです。なお、奴隷といっても家庭生活も営めましたし、財産も所有でき、解放されることもありました。これはこの後もそうですが、ヨーロッパで言う奴隷とは性格を異にしますね。
ちなみに、「強者は弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦に授けられるように」というなかなか立派な理想の条文もあります。このような安定した統治国家の下では商業が発達。貨幣を使った経済が発展し、また一方で借金に苦しむ人も出てくるようになります。
そんなに発達した文明ですが、発達したが故にハンムラビ王の死後は財宝を狙って異民族が侵入してきます。バビロニア王国は、世界で初めて鉄製の武器を使用したヒッタイト人によって滅んでしまいました。
●ヒッタイト・カッシート・ミタンニ王国 |
さて、バビロニア第一王国を滅ぼしたヒッタイト人ですが、これに限らず多くの諸民族達が移動を開始し、各地の先住民を従えるようになります。いわゆる、インド・ヨーロッパ語族の大移動です。その名の通り、インド地域から中央アジア、中東、ヨーロッパに分布する言語をひっくるめたものです。
これは18世紀末のイギリス人ジョーンズが古代インドのサンスクリット語、ギリシア古典、ラテン語が非常に似ていることを指摘したことから始まったもので、その後の研究で根底となる部分が同じであることが判明したのです。まあ、この辺の話は省略します。
さて、この言葉を話す民族のうち、特に有名なのが、そのヒッタイト人です。彼らはラバルナ1世(位前1680〜前1650年)の下、クッシャラを首都とするヒッタイト古王国を建国すると、東方へ進出。3代目のムルシリ1世の時、バビロニア第1王国を滅ぼすのです。しかし、バビロニアを滅ぼし、意気揚々と故知に戻ったムルシリ1世は暗殺されてしまいました。王位継承が成文化されておらず、この後も王族の暗殺が相次ぎ、ヒッタイトはしばらく衰退。一時はテリピヌ王(位 前1525頃〜前1500頃)が混乱を収拾し、王位継承についての厳格な勅令をだしますが、やっぱりその後内紛が発生し、崩壊。ヒッタイトは都市国家群として残り、その後、ヒッタイト新王国として再統一します。これは、また後ほど見ていきます。
また、ムルシリ1世暗殺後に、バビロニア地域にはヒッタイトではなくカッシート人が進出しました。民族系統は不明ですが、これもインド・ヨーロッパ語族に近いと考えられています。彼らはバビロニアにカッシート王国を建国。前1417〜前1376年のアマルナ時代と呼ばれる頃が非常に強大で、ヒッタイト人、ミタンニ王国、アッシリア王国と争います。しかし、前1225年頃にアッシリアに屈服し、その後独立を果たすものの、前1115年頃にシリアのエラム人達によって滅ぼされました。
そうそう、ミタンニ王国についても書いておかねば。ミタンニ王国とは、ヒッタイトとアッシリアの間にある国家です。大多数のフリル族をインド・アーリア系の民族が支配する国家で、前16〜15世紀が最盛期。馬術が得意で、ヒッタイトにも調教師を送っています。このころ、エジプトやヒッタイト、バビロニアと4強と呼べる存在で、アッシリアを服属させていましたが、王家に内紛が起こり衰退しヒッタイトに服属。王家の内紛は滅亡につながりやすい。
というわけで混乱に乗じて、アッシリア王アッシュールウバリト1世(位、前1365〜前1330年)は、チャンス到来!!と、ミタンニの支配をのがれ、一気にこれを滅亡させました。後にも述べますが、とにかくアッシリアは前2500年頃から続く国家でありながら、勢力を拡大したと思ったら衰退して強国に従属する。ところが、また突然勢力を盛り返すという国家です。
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