第11回 アレクサンドロス3世の後継国達(2)

○今回の年表

前330年 アケメネス朝ペルシア、滅亡。
前323年 アレクサンドロス3世死去。後継者争いの勃発。
前317年 インドでマウリア朝が成立。
前312年 セレウコス朝シリアの建国。
前306年 プトレマイオス朝エジプトの建国。
前272年 ローマ共和国、イタリア半島を統一。
前248年 パルティア王国の建国。
前221年 秦の始皇帝が、中国を統一。
前129年 パルティア、新都クテシフォンを造営。
162年 ローマ帝国、パルティアを滅ぼす。

○プトレマイオス朝とローマ共和国

 さて、前63年にイタリア半島から急激に成長したローマ共和国ポンペイウスによってセレコウス朝シリアが滅亡します。

 セレコウス朝は、支配地であるパレスティナのユダヤ人にギリシア文化を強制したため、反乱を起こされ(マカベア戦争 前166〜前142年)、さらに独立され。その後王家の内紛で国力が減っていました。ここは、次回詳しく見ます。

 ともあれ、シリア滅亡によりパルティアはローマ共和国と国境を接する事になり、またアルメニアの領有権を巡って270年にわたる戦争と和平の繰り返しを始めます。

 それでは、この時代のローマの政治的な動きも見ていきましょう。
 この時代、ローマ共和国の実力者3人の1人、クラッススは、他の実力者であるのカエサルやポンペイウスが活躍していたため功を焦り、パルティアにも攻め込んできます。これはパルティアの勝利で、クラッススは戦死します。ここで、ローマの元老院は挽回のチャンス到来。ポンペイウスとカエサルを天秤にかけ、ポンペイウスを元老院側に引き込みます。そして、カエサルの属州総督任期切れと共に、彼の軍隊を解散するように要求します。カエサル、これはピンチです。

 これに対し、カエサルの取った行動はローマに進撃することでした。その中でルビコン川を渡る時における彼の言葉「賽(さい)は投げられた!」はあまりに有名です。そして、ローマ市民はカエサルに味方し、ポンペイウスを追い出し、そして追います。そのためポンペイウスは、目をかけていたプトレマイオス朝エジプト王国に援軍を要請します。
 そのプトレマイオス朝は、男女二人の王が共同統治する事になっており、この時クレオパトラ7世(位 前51〜前30年)と、その弟のプトレマイオス13世が在位していました。クレオパトラ7世というのは、いわゆる悪女と言われ続けているクレオパトラです。そして、その姉弟2人の王は仲が悪かったのです。

 そんな中の援軍要請。
 プトレマイオス13世は独断で、頼ってきたポンペイウスを殺し、遺骸をカエサルの下に届けました。この時のプトレマイオス13世の部下の進言が「死人に口なし」(これが語源なのです)。ところが遺骸を見たカエサルは号泣し、丁重に葬ったといわれています。

 そこにお忍びでやってきたのがクレオパトラ。カエサルはその美貌にうっとり・・・・と、これは下世話な話で、実際にはクレオパトラの雄弁に聞き惚れたというのが真相らしいです。なんと言っても、クレオパトラは数カ国語を自由に操る女性ですから。また、クレオパトラと手を組むことでの、政治的なメリットも考えたでしょう。

 そして、クレオパトラはカエサルの支援の下、プトレマイオス13世を倒す事に成功。そして、カエサルとの間に息子も生まれます。カエサリオンと名付けられ、カエサルにとって唯一の息子となります。そしてカエサルは、おそらくクレオパトラとの長い政治的な会談の後、ローマに帰国します。そして、クレオパトラを連れてローマで凱旋式を行いました。その後、カエサルは、貧民の救済、属州政治を改革と頑張ります。

 ところが、カエサルは終身独裁官兼最高司令官(インペラトール 皇帝の語源)なる長たらしい役職を創設し、就任し、元老院を無視して政治を行います。こうなると共和主義者らは「カエサルが王位を狙っているのでは?」と警戒。元老院の後押しもあったのでしょう。カエサルの養子ブルートゥス(前85〜前42年)、カッシウスを中心とするグループは、カエサルを刺殺しました。
「ブルートゥス、お前もか・・・」
は、余りにも有名な言葉。信頼した養子に裏切られたカエサルの最後でした。

○クレオパトラとプトレマイオス朝の滅亡

 カエサル死後、その遺言により部下のアントニウス(前82〜前30年)レピドゥス(前90頃〜前13年)、そしてカエサルの姉の孫にして養子、さらに相続人に指名されたオクタヴィアヌス(前63〜後14年)の3人で権力を分立する事になりました。これが、第2回三頭政治です。
 アントニウスは、巧みな弁舌によりブルートゥス達に国賊の烙印を押す事に成功。そして、オクタヴィアヌスと共にこれを討伐し、更に邪魔な元老院・騎士身分の人々を粛清し殺害しました。政治家で雄弁家のキケロもこの時アントニウスによって殺されています。

 ところが、アントニウス。オクタヴィアヌスとは領土を巡って対立していた上、オクタヴィアヌスの姉・オクタヴィアを妻としておきながら、クレオパトラと浮気してし離婚し子供まで作ってしまう。さらに、カエサルとクレオパトラの子、カエサリオンをカエサルの後継者として承認してしまいます。これでは、養子であるオクタヴィアヌスの正統性が消えてしまいます。

 このため、両者の対立は決定的となり戦闘開始。アクティウムの海戦でクレオパトラ・アントニウス連合軍はオクタヴィアヌスに敗北します。これが決定的な打撃となり翌年、彼女たちは自殺し、さらにカエサリオンも殺されました。

 こうして、プトレマイオス朝エジプトは滅亡したのです。
 また、レピドゥスもオクタヴィアヌスに反抗し、失脚。こうして、オクタヴィアヌスがローマの実力者になります。
 彼が34歳の時です。

 なお、オクタヴィアは、アントニウスとクレオパトラの子供達全員を育て上げたといわれています。

○アウグストゥス帝

 オクタヴィアヌスは凱旋すると、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の尊称を受けます。一方のアウグストゥス、今までの先代権力者達のように元老院に狙われないように対策を取ります。それが、共和制を尊重するという事で、例えば彼は、カエサルが命を落とす原因となった独裁官には就きませんでした。
 その代わり、彼は様々な役職を兼任する事で実質的に文武の権力を握り、プリンケプス(第一の市民)として政治を行う事にします。いわば、国家代表という事で元首政といわれます。

 元老院としても、強いオクタヴィアヌスに対抗する事は得策ではありません。むしろ、共和政を尊重するなら、ということで権限をどんどん与えます。というわけで、オクタヴィアヌスは独裁君主と等しく、ローマは共和制から、実質的な帝政へと移行するのでした。オクタヴィアヌスは、アウグストゥス帝と呼ばれます。またその後、インペラトールの称号ももらい、それはエンペラー(皇帝)の語源となりました。

 彼は、属州の人口調査と徴税の徹底、都市の自治の拡大、壮麗な建築造の建物を建築(自分で、レンガのローマから大理石のローマにしたと豪語するほど建築が好きだった)、姦通罪の設定、贅沢の禁止などを行います。
 こうして、ローマは彼によって大胆に改革されていきました。
 当然、ローマ帝国の国力は増強されていきます。

○ローマ帝国とササン朝ペルシア

 さて、ちょっとローマの動きも見ていかざる得なかったわけですが、エジプトを片づけたローマ帝国は東方に向けて出陣。パルティア王国へ猛攻をかけてきます。それでも、パルティアはよく防衛したものの、162年、ローマ皇帝トラヤヌスは、パルティアの首都クテシフォンを占領。親ローマ的なパルティア王を即位させます。・・・もっとも、トラヤヌスは帰国の途中に病没するのですが。

 この後、ローマのハドリヤヌス帝はパルティアと和平を結びますが、小競り合いは続きます。しかし、パルティアがいつも守勢で、なおかつクテシフォンなどメソポタミア地域という心臓部で戦争ばかりするので、国力はドンドン減っていきます。

 こうして、226年。
 意外にもローマではなく、アケメネス朝と同じ場所に勃興したササン朝ペルシアによってパルティアは滅亡しました。

 ちなみにローマとパルティアの和平時には、パルティアは中国(漢)や東南アジアとローマ共和国を結ぶ交易路の中継地点として機能しました。いわゆるシルクロードです。シルクというのは絹(きぬ)のこと。コースは中央アジア経由の陸路、インド洋経由の回路の2つ存在しました。一般にシルクロードと言えば陸路が有名ですが、海のコースも重要です。

 で、このうち陸路を通って中国の王朝である後漢の甘英と言う人物が、ローマ帝国へ行こうとやって来ました。しかし、シリアまで来たとき「まだまだローマには遠いよ〜」と脅され、ホームシックに陥らせて帰らされました。これは、シリア地域がローマと漢の中継貿易で儲けていたため、直接交易されてたまるか、というわけで脅したのです。

 こうして、ローマでは自分たちが来ている絹の服の材料の原産地が漢という東方の国である事をついに知る事はありませんでした。しかし、中国・東南アジア・インド・中央アジア・ローマの商品・貨幣などの文物は見事にミックスされ、商人達によって、運ばれていました。

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