第23回 イスラム過激派の原点?VSモンゴル
○今回の年表
1086年 | 北アフリカのムラービト朝、イベリア半島に進出。 |
1055年頃 | シーア派過激派のイスマーイール派が、ニザール派とムスタアリー派に分裂。 |
1092年 | セルジューク朝の宰相ニザーム=アル=ムルクが、ニザール派に暗殺される。 |
1256年 | ニザール派。フラグ率いるモンゴル帝国軍に滅ぼされる。 |
○暗殺者集団、誕生・・・。
現在、相次ぐイスラム過激派による自爆テロが、世界を震撼させていますが、実はイスラム中世期にもテロで恐れられた集団がありました。それが、シーア派過激派ニザール派。シーア派のためならば、イスラム・キリスト教(十字軍)だろうが多くの要人を暗殺しまくっていました。イスマーイール派のハサン・サッバーフ(?〜1124年)が、それを分裂させて作りました。イラン山中に拠点を構え、暗殺者をどんどん送り込みます。暗殺・・・例えば、セルジューク朝の宰相ニザーム=アル=ムルク。名君である第3代スルタン・マリク=シャーと二人三脚でセルジューク朝の最盛期をつくった人物ですが、1092年、彼はバグダードに帰る途中でニザール派によって暗殺されました。そして、彼とマリク・シャーの死後、セルジューク朝は分裂します。
暗殺はセルジューク朝トルコを中心に行われたほか、十字軍に対しても行われ「アサシン」として恐れられました。アサシンという言葉は、暗殺者が麻薬を飲んでから暗殺することから、大麻を表すアラビア語「ハシーシ」が由来となっているそうです。
○しかしモンゴル軍には勝てなかった
このニザール派に対してセルジューク朝は戦いを挑みますが、本拠地を陥落できない。結局やられるがままとなりましたが、1256年。中央アジアでチンギス=ハンによって突如勃興したモンゴル帝国によって、ついに滅ぼされました。モンゴル軍を率いてきたのは、チンギス=ハンの末子トゥルイの息子・フラグです。今回はちょっと内容が少ないですが、次の回へ進みます。
次のページ(第24回 イル・ハン国によるアラブ統治)へ